生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

黴の華の舞い、(黴の種は尽きまじ)

2010年08月21日 19時04分48秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月21日-3
黴の華の舞い、(黴の種は尽きまじ)

 あちこちでカビていた。

        黴
         黴黴
     黴 
   黴黴
  黴黴 黴 黴 黴 黴
 黴黴 黴黴 黴黴黴  黴
   黴黴 黴 黴 黴
     黴 黴黴

 黴もまた美しい。
 それは、神々しい営みの華である。
 それは、蒼き来るべき人、風の谷のナウシカ、が感謝した生きものたちの繋がりあった営み、を讃える象徴的(この「象徴的」とは、どういう場合を言うのだろうか)な生きものである。

 ひょっとしてすでに、わが肺に、Aspergillus属の生物体が咲いていたりして。(そう言えばひところ、団地住宅のベランダに鳩が巣を作ること多く、その糞が媒介となるのか、子供の脳に黴が生えるとかの騒ぎがあったような。今はどうなっているのだろう。)どうであれ、黴びたダンボールの数々は、火で浄化するに限る。ごめんね。

 昨日、黴吸入防ぎにマスクをして、おおよそ手袋もして、ダンボールその他の家のなかのゴミを軽自動車で三回、ごみ処理場に搬入して捨てた。単価 10kg 毎 160円とある。

  50kg  800円
  60kg  960円
  80kg 1,280円
  計   3,040円

 あちゃー、。それに、ゴミ捨ての動機となった、長い刺のある梅の木の枝は、ほとんど残ってしまった。もっと乾燥すれば軽くなる、よって重量制ならば費用が少なくなるが、堅くなると切りにくくなる。短く切っておいて、それから乾燥させるのがよろしい。(てなこと言っている時間があれば、他の優先順位の高いことをやりなさい。仰せの通り。)それにしても10kg 毎でなくて、5kg毎としてほしいところだが、車で測っての差し引きだし、巨大トラックも計測するわけで、このような単位なのだろう。

 食事代として朝200円、昼800円、夕1,000円、おやつや夜食や交通費その他もろもろを1,000円とするような、豪華な一日が過ごせたのに。そもそも、捨てるような物は、買わないに限る。反省すべし。日々、反省。平安時代は、一日に二食だったらしい。(食事についてのいわゆる西洋流の結論では、朝抜きは良くないというが、人によっても違うと思うが、朝抜きは胃腸を一日のはじまりに整えるのに良いとか言う人もいたりするわけで(言論の自由)、)朝抜きは、調子が良いような気がする。本当のところはわかりません。何を指標あるいは判断の基準に取るかで、変わってくるだろう。

 搬入の場合は、燃えないゴミについても、さらに分けておれば、出したり積んだり、あちこち行ったりすることが少なくなる。燃えないゴミと燃えるゴミの大分けをして、どちらか出す順番を決めておくのは最低限やっておくべきである。つまり、積み込みの順番を考えておくこと。
 
 ついでに捨てることにした90cm四角などの大きさの木の板や重い石膏板などは、大型の箇所で車から出して自分で捨てる。日頃に筋が鍛えられていなかったためと思うが、翌日、ボールペンで字を書くのに力が入らず、少し難儀した。

 それにしても、様々な臭いがする中で働いている人々に、感謝。

 交通費はどこの土地でも高いが、ここは、水道代、ゴミ捨て代といった生活に必要な経費が、他の自治体と比較して高いし、分別も種類が多くて時間がかかる。

 昔、年末のゴミ収集のバイトをしたことがある。
 事故が起きたことの、因果関係。



生殖隔離的種概念からシステム的種概念へ

2010年08月21日 16時27分24秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月21日-2
生殖隔離的種概念からシステム的種概念へ

 Mayr (1982: 273)は、生殖隔離的種概念 isolation concept of species(これを生物学的種概念と呼ぶのは、止めよう)のMayr (1942)の定義を引く。

"Species are groups of actually or potentially interbreeding natural populations which are reroductively isolated from other such groups" (Mayr 1942: 120; Mayr 1982: 273により引用)。

  「種は実際にまたは潜在的に相互交配する自然な個体群のグループであり、かつ、それは他の同様のグループから生殖的に隔離しているグループである。」
 〔論理的関係を明瞭にさせるために、このように訳した〕

 この定義は、本来の定義ではなく、実際の個体群(『個体群』がまた定義されなければならないことが問題。そして、「個体群」を定義するのに種が潜んでいることが多い)、現実に或る個体群のグループ(ここでこのグループを類別するのが困難)が、相互交配またはあるいはかつ、あるいはまたはとかつ("or", or, "and" or both)生殖隔離という基準で類別している。生殖隔離という基準だけでは、種とは何かというように定義していないから、明らかに、操作的「定義」である。相互交配という基準をもちいる場合も、種とは何かに答えているとは言い難い。すくなくとも、直裁に答えてはいない。

 相互交配するかどうかは、有性生殖する生物体では、現実に、雄一個体(個体m1)と雌一個体(個体f1)の間で、交配するかどうかを判定するということになる。すると、結果は(同一種または異種に属する)生物体間によって。その種類と程度は様々である。たとえば、交尾しても受精しない、受精しても胚発生しない、胚発生しても初期で止まる、(同一種だと同定される生物体間で)個体によってはその程度が様々である、孵化に至らない、子が生成されても生殖可能ではない、子が子を産んでも一代限り、あるいは数代限り、いくらでも生殖する。(ここでは論じないが、生殖可能かどうかの判定について、有性生殖の場合に固有の問題があることに注意。)

  〔詳細に書き出すと、先に進まないな。そろそろ旅の支度を〕

 1. 自然な個体群 (「自然な」とは野外でのことで、人為的環境下での個体群?と対照させている?)
 2. いくつかの自然な個体群を、相互交配または生殖隔離によってグループ化する
  (→そのようにグループ化したものは、実在者なのか構築体なのか?)


 生物体たちを、何らかの基準でまとめることをするのは、人であるから、そのようにしてグループ化された対象は、構築体である。それ(ここでは相互交配すること)が、現実に作用する力によって、生物体たちを結合させている力と対応すれば、したがって、生物体たちから構成されるシステムとなっているのであれば、よい。

=== 脱線別欄 はじまり ===

 実際の親子関係にもとづいて、生物体を類別することは可能である。その構成の仕方は、EVOLVE(番号未詳)で記述した。
 図解すると明らかなように、そのように分けたところで、分類的実践には、何の役にも立たない。あなたは、(どういうわけか産出されて)現実に(どんな現実かは、棚上げする)存在すると仮定する。あなたの両親がいて、そのまた両親がいて、さらにまた両親がいて、……。つまりあなたという一個の存在者は、幾多の先祖代々の営みのうえに築かれた、歴史上稀有なる奇跡的(!?)な存在者なのである、うんぬんかんかん、がくがく……。

 それではあんまりや、ということなら、もそっと形質でも付け加えよう。あなたの眼は三角錐である。あなたの母もそうである。そしてその母の母もそうである。……いつのまにか、そのまた母の眼は球形である。

 『いつのまにか』、というのが気に入らないのなら、或る原因または理由で、世代を下って観測すると。あら不思議、球形が三角錐になっちゃった……(カメレオン説話を見よ)。つまり、「変わるべくして変わる」と言うのと、たいして変わらへんのとちゃう?
 (故)今西錦司氏の言う「変わるべくして変わる」は、生物は「変わるべきときが来たら、変わる」という表現と同じだったと思うが、そうならば、少しわかりやすい。システム変換の状況を言っているとする解釈も可能だろう。むろん問題は、いかにして、である。
 『なぜ』などに答えるのは放っといて、『いかにして』に答える。たとえば、現象や存在者について、変数を抽出または設定して(特に比率尺度または間隔尺度の)変数間の関係(関数関係)を問題としたこと、それは確かに近代科学の成功の理由(の一つ)であっただろう。

 アリストテレスの四つの種類の説明を無視することはできない。

=== 脱線別欄 おしまい ===
 
 しかし、相互交配の基準では、同一の種タクソンに属するかどうかは、様々であるという実際の欠点がある。(実は、そもそも定義になっていないから、その点からは、実際の欠点があろうとなかろうと問題外である。というより、一般的に言って、操作的なやり方をすることから、そのような欠点を生じさせることが多い。)
 むしろ、生物体間で相互交配が可能ということは、それらの生物体たちが同一の種に属するからである。つまり、或る種が(もちろんどの種も)もつ性質の一つである。種一般がもつ性質は他にもあるので、これから考えても、種の定義とはなっていない。相互交配も、生殖隔離も、一つの判断基準なのである。形態的や生態的に多くの形質が異なっているので、別種だと考えられる生物体間でも、どういうわけか子ができるかもしれないから、<判断基準としては>、生殖隔離のほうが重視される。むろん、定義としては、Mayrがやったようにしないと、表面上は定義にならない。生殖隔離だけでは、或る二個体が同一種かどうかの基準を与えないからである。
 
 また脱線した。持っていきたい方向へ戻る。

 網谷(2002: 75頁)は、後にMayrが「実際にあるいは潜在的に」という語句を削除した理由は、「生殖隔離機構の存在は、当該(諸)集団の(実際の相互交配の有無に関わりなくあてはまるので、わざわざ「実際的/潜在的」ということを示す必要はない(Mayr 1982: 273, 1992: 229, 2000: 95f)」と、註に紹介している。
 「潜在的に」とは、言葉の意味から言って、そもそも観測しないことの話である。それなのに、たとえば機会があれば、或る二個体が交配することが、どうやってわかるのだろうか。操作的には、わかるはずがない。推論するとすれば、その二個体からの外部形態とか(お好みなら、なんらかのDNA配列)のもとづくものであろう。しかしその推論は、すでに或る種(タクソン)についてそのもととなる性質から判定できることがわかっているからの可能である。定義する場面の話ではない。

 また少し脱線した。
 (なんやったっけ?)
 
 そうそう、「潜在的に」ということが、種の定義と関わる(つまり、種の本質。ところで、Mayrによる本質主義批判なるものが、批判にはなっていないことについても論じなければ……)という方へ議論を持っていくことであった。

 さて、Mayrの隔離的種概念の定義なるものは、無性生殖生物体には適用外である(定義が、個々の生物体について判定基準となって適用されるということが、そもそもおかしい)。その適用範囲のことに、批判があるが、定義は自由なので、逆に無性生殖生物体には種というものが無いのだとしてもよい。そうすると、{種が定義できる生物体、種が定義できない生物体}と、あらゆる生物体が大きく存在様式で二つに分けられる。
 どうです、生物学的世界が二分割されて、すっきりとした気分になりませんか?

 それはともあれ。

 有性生殖する場合で、
  <生物体たちが相互交配可能であるのは、それらが同一種に属するからである。>
 
 つまり、Mahner & Bunge (1997)が言うように、話が逆なのである。
 そしてこのように考えた定義を考案すれば、無性生殖生物体でも、n性生殖生物体(nは0以上の整数値。3性の場合には、「両性」という語の指示対象が不明瞭になる)でも適用できるだろう。

 そこで、よくよく考えると、

  1. 分類とは、われわれが誂えたカテゴリーを操るという、頭の体操なのだから、生物(学的)分類において、用いられる種タクソンとは、構築体以外ではあり得ない。

  2. しかし、生物体たちが産出されるという現象を考えると、また、たとえば形態的、生理的、行動的などについて測定されれば、それらの異種間測定値に見られる離散性もまた明白である(間が連続的な場合も観測されるが、まずは大部分を救うことが肝要である)から、これらは、種というシステムの存在ゆえに結果する(そのような現象が観測される)のだと考えるのが、妥当である。きっと、それが正しい。いや、間違いない。なぜなら、何らの欠点もなく、操作上のものではなく、概念としての定義になっているからである。よって、わがシステム的種概念 the systemic concept of species が、完全無欠に正しいのである(豪快気炎、瀑笑〔お好みなら爆笑、ビールを飲みながらのときは麦笑〕)。

http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3075945
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=2781665
 
[A]
網谷祐一.2002.E・マイヤーの生物学的種概念.科学基礎論研究 (98〔号〕): 23-28〔別表現では、29〔巻〕: 75-80〕.

[M]
Mahner, M. & Bunge, M. 1997. Foundations of Biophilosophy. xviii+423pp. Springer-Verlag.
Mahner, M.・Bunge, M.(マーナ,マルティーン・ブーンゲ,マリオ).1997, 2000.(小野山敬一訳 2008.8)生物哲学の基礎.xxi+556pp. シュプリンガー・ジャパン.[ISBN 9784431100256] [y13,000+]
 
Mayr, E. 1982. The Growth of Biological Thought: Diversity, Evolution, and Inheritance. ix+974pp. The Belknap Press of Harvard University Press.


美術活動の展望はどこにあるのか?

2010年08月21日 13時50分38秒 | 美術/絵画
2010年8月21日-1
美術活動の展望はどこにあるのか?

 (このプログでの文献に登録していなかった)須賀『日本美術界の実態:私の視点』の「〈追記〉美術公募団体の展望」(107-129頁)を再読。その前の第V章は、「公募団体の特質と斜陽化」(79-105頁)である。
 日展の集客数は抜群である。或る美術館の各展覧会ごとに入場者数や一日当たりの入場者数で見ても、他の突出して多かった美術展と遜色が無いくらいである。東京で十数万人(須賀 2008: 110-111頁)、大阪で数万人くらいの観覧者(大阪市立美術館か大阪市の発行印刷物のデータを見た記憶で)がある。(工芸部門での会員先生による、30分予定のが1時間くらいにもなったミニ解説は大変良かった。出品作品が良かったし、また解説者の意欲が感じられたし、解説姿勢と内容が良かった。後に大阪で、それらの工芸作品を再び見ようと思ったが、見当らなかった。洋画部門では、藝術院とかなんとかの審査のための方に出されていて、いくつかが展示されていなかった。)

 『芸術新潮』によると(1985年2月号だろう)、
  入場料収入   1億数千万円
  出品料収入     8千万円
  カタログ売り上げ   〔?〕
  広告料        〔?〕
とのことである(須賀 2008: 110-111頁)。

  「〔日展の洋画部門は〕魅力的な画家がいた。公募団体は圧倒的に洋画部門が多く、光風会、一水会、東光会、示現会、白日会などの日展傘下団体を寄せ集めても、その魅力には限界があった。
 ……彫刻部門は、そのほとんどが写実系である。これが三百点余展示されている状況は、私には異様な感じがする。」(須賀 2008: 110-111頁)。

  「『週間新潮』02年6月20日号〔の〕……福田和也の「闘う時評」〔に〕、「平山郁夫展に暗然とする」という題で、平山に対する批判が二ページにわたって掲載されている。……「俯瞰写真のような平板な画面に辟易し、」……「……観光写真のような作品群……と、児童書の挿絵……ような、歴史への敬虔さのかけらもない作品ばかり。……失笑するしかない図柄。」(須賀 2008: 118頁)。

 (元の文献を読んでいないが)引用されている部分だけでは、福田氏が画面がどうなっているからということに言及しての批評ではない(ようだ)。観光写真のようでも、児童書の挿絵のようでも、敬虔さのかけらもなくても、良い作品はあり得ると思う。「お得意の金ピカで描かれた世界地図を背景に、キリスト、釈迦、マホメットの三人が一堂に会するという失笑するしかない図柄」と言うが、そういわれてもなぜ「失笑するしかない」のかわからない。考え方によっては、世界地図は象徴的提示だし、代表的三人もなんて豪華でよろしいかも、である。やはり、画面のどこがどうだから、しかじかである、そこでわたしはあれこれこのように感じるまたは思うと、言うべきだろう。しかし、評価については、わたしもまったく同意する。
 須賀(2008: 119頁)の「私は平山作品からインパクトを全く感じない」も、その通りである。なぜだろう? 一言では、reality、ここでは存在感とか迫真性が無いということだが、それはなぜなのか? 原爆被爆体験からかなり経ってようやく描いたという作品(題名失念)を期待して見にいったが、迫力が感じられなかった。一つは構図が関係していて、童子が画面に比して小さいことがあると思う。しかしなによりも、炎にしても焼けている建物にしても、平板であり、おそらく対象の空間的配置が通常視覚的な配置であることと、岩絵具の配色の問題だと思う。
 朝日新聞2007年9月14日に掲載された、草薙奈津子氏の高山辰雄追悼文の、「高山辰雄は、日本画が陥りやすい形式化、装飾化、視覚的な美的表現に向かうことを拒否し、より精神的な絵画表現を求める道を選んだ」を、須賀(2008: 119頁)は引用し、平山郁夫氏とは「対称的」(→対照的ではないか?」な位置に考えると言う。

 国画会については、「彫刻部は研究会をつくり、その結果を秋に発表するなど、前向きな姿勢が好感を持たれている」と須賀は書く(123頁)。

 モダンアート協会については、「徒らに規模を大きくしようとして、例えば京都の前衛陶器のグループを会員に招待したりするのに疑問を感じ退会した。……実験精神を持った新人の出品も七〇年頃から減少し、展覧会の質的稀薄化は増した。」(須賀 2008: 123-124頁)。

 「どの公募団体も有力新人の出品が減少して、増えることは考えられないのが悩みの種である。……
 この一〇年間を考えてみても、公募団体展評を掲載した主要新聞は一紙もない。これが新人の出品意欲をそぐ一因とも考える。また、札束奉納の異常な日本藝術院会員選挙なども影響しているだろう。」(須賀 2008: 128-129頁)。

 う~む。他の公募団体についても記述して、問題点を指摘している。しかし、公募団体のこれからの展望についての提案は、特には書かれていないと思う。有力新人は、公募団体以外から出て来ているのだろうか? そうだとしたら、それはいかにしてか?

 (芸術の推進または発掘。過去作者では、伊藤若冲や曽我蕭白の発掘(?)。→奇想の系譜。)

[S]
須賀通泰.2008.4.日本美術界の実態:私の視点.(口絵)7+133pp.幻冬舎ルネッサンス.[y1,470] [B20080916, Rh20080917]

[T]
*辻惟雄.2004.9. 奇想の系譜 (ちくま学芸文庫).筑摩書房.[y1,365]