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パスカルの賭け:神の実在を期待する/衣食足りて礼節を知ろう

2010年08月31日 12時19分54秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月31日-1
パスカルの賭け:神の実在を期待する/衣食足りて礼節を知ろう

 石浦章一『遺伝子が明かす脳と心のからくり』(2004: 255-256頁)に、次のようなことが述べられている。同じ述語になるようになど、比較しやすいように、表現は改変した。

 A1. 神を信じる人にとって、神が存在するならば、幸福な生活が得られる[利得をaとする]。
 A2. 神を信じる人にとって、神が存在しないならば、何も起こらない[?=幸福な生活も不幸な生活も得られない。利得は0]。
 A3. よって、神を信じる人は、平均すると幸福な生活が得られる[a+0 = a/2 >0]。


 B1. 神を信じない人にとって、神が存在するならば、地獄に落ちる[→不幸な生活が得られる。利得を-bとする]。
 B2. 神を信じない人にとって、神が存在しないならば、何も起こらない[?=幸福な生活も不幸な生活も得られない。利得は0]。
 B3. よって、神を信じない人は、平均すると不幸な生活が得られる[-b+0 = -b/2 <0。bは正の数だとする]。


 パスカルは、この両者を比較して考えると、神は信じた方がいいと結論したらしい。
 石浦(2004: 256頁)は、

  「この論理のおかしいところは、「神は存在する」と「神は存在しない」が五分五分の確率だと考えているところですね」

と言う。はてな?

 []内に注釈したように、神が存在する、あるいはしないが、五分五分の確率でなくとも、パスカルの論理は成立する。五分五分でなく、神が存在する確率をpとし、神が存在しない確率をqとする。ここで、神は存在するかしないかのどちらかだと仮定すると、p+q=1である。(神は遍在し、かつ偏在するとか、、神は無限であり、かつ有限であるだとかを仮定した場合は、p+qはどうなるのか、分かりません。)
 また、利得は神の存在確率を掛けることで算出されると仮定すると(神にどんな性質を与えるかで話は変わるだろうが)、

  神を信じる人の利得は、p x a
  神を信じない人の利得は、q x (-b)
     pa > -qb

 左辺は正であり、右辺は負である。このことは、pとqがどちらも非負(=>0)である限り成立する。
 バスカルの論理がおかしいとしても、それは、神が存在するしないが五分五分の確率であることではない。

 ウィキペディアによれば、パスカルの賭け(『パンセ』233節)では、利得を無限大にしているが、有限でも上記の論理は成立する。

 さて。
 問題は、われわれが住む地球という世界に、苦痛や悲劇が満ちているように見えることである。食糧生産(速度)は60数億人分に余っているとすれば、場所と時間の分配の問題であり、不足するように見えるのは、浪費が多いということだろう。先進国では、食品廃棄率が高いようである。不足しているのは、公平な分配である。

 苦悩を通じて歓喜へ、がこれまでの人間と、これからしばらくの人間の課題であったとすれば(事例として、Ludwig van Beethoven)、そして、地球を含めた宇宙そのものが神であると定義すれば(いかなるときも、定義は自由である)、苦痛が与えられることは恩寵である。すなわち、苦痛(そのように取った場合であるが)を歓喜へと変換することが、人間の可能性であり、栄光である。

 人間の可能性……。しかし、まずは衣食住性遊といった生活上の必要を満たすこと。分業制を取るのであれば、そのように供給すること。基底は健康である。明示的に、衣食住性健遊としておくのが良いかもしれない。
 人生を楽しく送る。しかし、この今の世界で不足しているのは、正義であろう。むろん、正義は一つの概念である。それを少しでも実現しよう。

 
[I]
石浦章一.2004.7.遺伝子が明かす脳と心のからくり:東京大学超人気講義録.羊土社.[y1,680]