生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

バッハ、モダンジャズ、モンドリアン、ヨーワカラン

2010年08月14日 23時59分26秒 | 美術/絵画
2010年8月14日-5
バッハ、モダンジャズ、モンドリアン、ヨーワカラン

 柏木氏によれば、ピエール・プルデューが『ディスタンクシオン』で書いているそうである。
  「知的資本を持っている連中はバッハを聴く。このバッハを聴く人はモダンジャズも聴く。モダンジャズを聴く人は、「モダンジャズに合った絵画は何か?」といわれると、すぐ「ピエト・モンドリアン」であると答えられる。」(柏木博 2003 in 永江朗『平らな時代:おたくな日本のスーパーフラット』230頁)。
 
 う~む……。
 プルデューは、研究費は要らん、(20年だったかな? 考えるための)時間をくれ、とか言った人だったと記憶している。
 
 『平らな時代』での、会田誠のインタヴューへの答え(137-178頁)は面白かった。覚めていて、とどまるところが無い。
  「日本の油絵の歴史って、……あんまり大した成果がないじゃないか、ということがわかってきた。それに対して、……どちらかというと文化的成果は日本画のほうがあると思うようになった。明治から終戦までの話に限ってのことですが。」(会田誠 2003 in 永江朗『平らな時代:おたくな日本のスーパーフラット』162頁)。
 
*永江朗.2003.9.平らな時代:おたくな日本のスーパーフラット.原書房.[Oc702.16]

タブロー、運搬可能性、売買可能性、額縁

2010年08月14日 22時07分57秒 | 美術/絵画
2010年8月14日-4
タブロー、運搬可能性、売買可能性、額縁

 「移動する聖地」という考え方が、タブロー〔壁画でなくて、板かカンヴァスに描かれた絵〕というかたちで、教会の壁から離れて、持ち運び可能になった「絵画」に、最初の原型を与えたと、椹木(2010: 282頁)は言う。ここでは、持ち運び可能性 portabilityと売り買い可能性が指摘されている。
 このあたりを(わたしの考える線に沿って)考察すると、以下となるだろう。

  1. 運搬可能である。それは、特定の場所に固定されていないこと、を内含する。たとえば、あちこちの美術館に巡回できる。
  2. 売買可能である。私有または公共財産とすることができる。ただし、所有者としては、一定の作品の安定性を要求したいところである。たとえば価値が高いならば、修復することにもなる。
  (同一性の問題が生じる。『本来のもの』という観点からは、たとえば源氏物語絵巻や仏教芸術品の当初の色彩と色褪せたものとは、どちらが本来なのか。ところでまた、描かれた当初は晴れやかな銀色だったが、時を経て(=酸化反応が進んで)黒ずんでしまった蜘蛛の網が、それゆえ迫力を与えているとすれば、上村松園『焔』は、当初作品と現在の現物とどちらがどうなのか。)

 運搬可能と売買可能の両方で、絵画が私有財産になったことを意味すると、椹木(2010: 283頁)は主張している。実際上はその通りであるが、運搬可能でなくとも、私有財産にすることはできる。固定資産でも、売買は行なわれるからである。ただし、運搬可能ならば、売買しやすいということである。そして論理的にはそうなのだが、技術的側面が実際の活動に大きく影響を与えることも真である。
 ただし、椹木(2010)のこのあたりの論旨に沿って言えば、イコン性は、今では西洋においても、問題にならなくなったと言うべきだろう。(少し問題になるのは、モンドリアンの神智学的考え方を表明したような、三人の女性を並べた作品である(
http://blogs.yahoo.co.jp/etintokushigeego/41617965.html
題名を忘れた)。
 ところで、「シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。」と、松岡正剛氏は述べている
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0033.html
。)
 
 
[S]
椹木野衣.2010.6.反アート入門.326pp.幻冬社.[B20100808, y1,890]


なんで、万物は数に似る、のか?

2010年08月14日 17時48分50秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月14日-3
なんで、万物は数に似る、のか?

  始まりは一切の半分
 
  万物は数に似る
 
 それらは、秘教教団を率いたピュタゴラスの警句、と伝えられる(イアンブリコス 144-145頁)。
 <数に似る>とはどういう意味か? 似るしかけ、あるいはメカニズムとしてどういうものまたはことが考えられるか。
 
 世界『について』<計算>するとは、どういうことなのか? いかにしてそれは可能なのか?
 
 
[I]
イアンブリコス.[フィレンツェ写本 14世紀](佐藤義尚訳 2000.1)ピュタゴラス伝.[叢書アレクサンドリア図書館 IV;補遺 ポルピュリオス『ピュタゴラス伝』].191+v pp.国文社.[B20000204, y4500+]

ギャラリーとかるね/アートカフェ・とかるね

2010年08月14日 14時47分53秒 | 美術/絵画
2010年8月14日-2
ギャラリーとかるね/アートカフェ・とかるね

 美術修行20100813(金)。
 ギャラリーとかるね オープン企画展[北海道立体表現展参加作家4人展]〔鈴木隆、熊澤桂子、池田緑、梅田マサノリ〕/アートカフェ・とかるね
http://tokarune.com/
/北海道中川郡豊頃町統内1515。




 概観は当然ながら小学校なのだが、内部の板壁などは白く塗られていて(ホワイトキューブ的だが、小学校跡という材質によるのか、柔らかい)、明るくまた開放的である。廊下の天井とその下壁に薄く緑色が漂っている。不思議な感触。外の草の緑が反映しているのだろう。素晴らしい展示空間になっている。

 鈴木隆作品は、立体表現展の出品作と同じ牛なのだが、まったく異なる印象。今回は大きく見え、大変明るいので、小さな釘で打ち付けられた皮の配置と質が生きているように感じられる。良い作品。暗いところでの見えとの差に驚いた。どういうところにどのような状態(特に照明)で置くか。ここはかなり自由に展示できるわけで、よい展示場所である。
 熊澤桂子作品は、奥ゆかしくどんつきに置いてあるのもあり。主体は点在するように配置された台上の、変形ニンジン。例によって可愛かったり面白い形の赤っぽいガラスが、ほどよい間隔で並ぶ。天井からの吊るしもある。
 池田緑作品は、少し高くなっている舞台に箱が並び、その箱のなかは巻きテープと白い紙のようなのが配置され、まんなかにその前側まで続く版画作品。端正というか空間美が感じられる。色の組み合わせがよいのだろう。廊下側面に、版画作品が連なって並ぶ。画面素材は写真からのようである。面白い要素の配列があった。
 梅田マサノリ作品は、例によって素材の使い方の勝利と思う。箱は自作なのだろうか。開閉やら張り付けやら、仕掛けがあるところが興味深い。個々、質の高い作品である(まだ分析記述語が用意できていない)。それらが、一つの棚物体に設置されている。窓には、液体の入った容器がいくつか。紫外線で色が変わるとのこと。

 オープン記念で無料のコーヒーをいただいたが、喫茶カウンターとともに、机と椅子がしゃれている。 或る無料配布誌では、ホワイトコーヒーとか言ったプロジェクトを進めている。コーヒーに牛乳を自分で好きな分量入れて楽しむという趣向である。わたしの好みである。

 小学校跡の利用として、作品の展示(部屋や廊下や体育館を使って展示場所または美術館にする)、製作〔制作〕と収納、教室開催などがある。十勝では、芽室町に二か所(六花亭所有?もなら、三か所)あり、この豊頃町でも小学校跡の利用ということになる。
 京都にある芸術関係の場所も小学校跡の利用だが、その体育館(改装はどの程度?)での或るピアノ演奏会では、入場者が音を吸収してしまって、ピアニストの耳への聞こえが悪かったとの話を聞いたことがある。

抽象絵画を讃えて1

2010年08月14日 13時46分00秒 | 美術/絵画
2010年8月14日-1
抽象絵画を讃えて1

 バウハウスのデザインは冷たいのか?
 クレーはどうよ?

 抽象とは、非具象、つまり外界に実在する物(対象物)を描かないこと。その捨象の仕方の種類と程度に応じて、いくつかの記述軸または測定尺度が設定できる。それはそれでよい。
 美術に関係するということでの要点は、見方が変革されたということである(もちろん、従来の見方に留まる人もいる、というか多数派かも)。絵具という物体で、絵具自身ではない、人物とか風景とか静物とか、外界に実在する物を表現するのは、錯覚の上に成り立っている。すると一つの尺度はいかに真に迫っているか、たとえば対象となったその人の感情やら精神性が感じられるとか、そこがよく描かれている、といったことになる。
 純粋に抽象的ならば、色彩(を支持する物体、つまり絵具)の面的分布の問題となる。形態的要素が明瞭ならば、その配列の問題となる。
 錯覚的に表現した対象(?!)がもつことによるのではなく、絵具そのものの性質によって、なにものかを鑑賞者に与える、または相互作用する、またはそれを契機として鑑賞者が読み込むこと。これが本質的なことであり、非具象であるのは、その方便である。(対比の問題。画面での対比(地と文または柄)とも関わるかも。)

 もう一つの軸。絵画の運搬性(の種類と程度)。特に、商品性との関わりで考える(芸術活動は、資本主義的流通体制とは別の制度を求めるだろう)。壁画を移設するには、かなりのエネルギー(の種類と程度)が要る。鑑賞者のほうが足を運ぶことになる。あるいは美術館をつくって多くの展示品があれば、観光客を呼べる(パリなど)。別天地みたいであれば、交通の便が悪い山奥のようなところでも、展示品と美術館関連(レストランなど)に魅力があれば、ゆっくり滞在型になる。例は、川村記念美術館、MIHO MUSEUM。

 おっと揺れた。震度3。