生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2007年5月

2010年08月18日 23時09分23秒 | 美術/絵画
2010年8月18日-5
美術修行2007年5月

 2007年5月4日(金)?。創造する多面体 ダリ展/サントリーミュージアム[天保山]/y1,200。かつての栄光のダリはいずこ?

 2007年5月5日(土)?。 ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展 パリを魅了した江戸の華ー北斎・写楽・歌麿/大阪市立美術館。ジャポニスム(日本趣味)。

 2007年5月5日(土)。第60回全関西行動展/大阪市立美術館。
          出品者数 出品点数
   絵画部委員    104   104
   絵画部一般     96   126
     合計     200   230

 2007年5月5日(土)。第52回日本画公募大美展/大阪市立美術館。二つほど良かった。

 2007年5月5日(土)?。宮本政子第13回洋画展/阪急百貨店うめだ9階美術画廊。
   無関係メモ:色鉛筆でフロッタージュ。

 2007年5月17日。2007バステル画企画展/藤丸7F催し会場。

 2007年5月26日。ヨーロッパ絵画展~天使がいた時代~〔~バロックから近代へ~〕/帯広美術館。


美術修行2007年1月, 2月, 4月

2010年08月18日 19時04分51秒 | 美術/絵画
2010年8月18日-4
美術修行2007年1月, 2月, 4月


 2007年1月7日(日)/千住博ーフィラデルフィア「松風荘」襖絵を中心にー/山種美術館。

 2007年1月17日(水)/フランツリスト室内管弦楽団演奏会/帯広市民文化ホール大ホール。viol. 前橋汀子。

 2007年2月20日(火)/外山啓介デビュー・ピアノリサイタル/とかちプラザ・レインボウホール/y2,000。

 2007年4月27日(金)/福田平八郎展、コレクション・ギャラリー/京都国立近代美術館/y1,000。

 2007年4月28日(土)/第33回大阪日曜画家展/大阪府立現代美術センター。

 
 2007年4月28日(土)/ミニアートツアー『現代美術の回廊ーーココア[COCOA]Corridor of Comtemporary Art/大阪府庁本館1階から3階までの吹き抜けロビーと本館2階の廊下/申込不要・参加費無料。14:00-15:00。数分遅れて追いついて参加した。

 大阪府立現代美術センターで入手した『plug 007』に、「大阪・アート・カレイドスコープ」のプロデューサー〔制作者〕である北川フラム氏の「アートは都市を救えるか?」の記事あり。

  「東京……は……、まったくの空(くう)だと思っています。対して大阪は、近代建築や水都の歴史といった基本的な地域のインフラがあるということです。そして街をうろうろしているうちに分かってきたのは、まちづくりやアートのグループが、個々それぞれにいいものを持っているということ。それも企業に媒介されているのではなく、人を媒介として動いている。つまり基本的な人間の力は東京よりずっと高いという意味で、極めて面白いし有望だと思っています。
 ……この展覧会について告知するために東京でもシンポジウムを開催して、「大阪はがんばっているし、基本的に力があるぞ」ということを伝えたかったんです。そうでないと、東京の大阪に対する認識は、いつまでたっても「お笑い、たこ焼き、阪神」から抜けられない。)。(北川 2007.3 3頁
http://www.osaka-art.jp/genbi/katudo/images/plug_007.pdf
)。

 政治経済の中心とは離れた地域の固有性を主張するには、創造都市と文化首都という考え方だという。関西では、国の助成を受けて、文化力をうたっている。
 ミース・ファンデルローエ Ludwig Mies van der Rohe の均質空間が、美術において対応するのが、ホワイトキューブ〔白方体〕だ(北川 4頁中央欄)という。どこてででも作品が同じように見えること、これが狙いらしい。効率性、指定者管理制度。

 「美術家は直感的に社会の問題を表すことができる、美術こそが今、問題を提出できる、ということで元気になってきたんです。1997年のミュンスター〔彫刻プロジェクト〕はさらに重要で、地域固有の問題に分け入っていかないと意味がない、という意識が出てきました。それが、先ほどお話した、地域に固有の価値を発見していく動きにも結びついていくわけです。」(北川 4頁右欄-5頁左欄)。

  「場所に対する理解と敬意があるならば、土地の人が参加するということが起こってくるわけです。……
 みんな現代美術は表現である、と思っているけれど、個人の表現という意味なら、それは間違いです。美術は本来、我々の住んでいる場所や、自然、文明と人間との距離を表現してきたんです。例えば、富士山との距離について、“ここから50キロです”という言い方をする科学とは違う、直感的な距離こそをアーティストたちは見せようとしてきたわけです。」(北川 5頁中央欄-右欄)

  「日本にはかつて市民社会がなかったという決定的な理由があって、そういう〔=美術界の外にアーティストを支える〕構造が成り立たない。……街の人たちと関わり、自分を支持する人たちを見いだしていくことで状況は変わりますよ。」(北川 5頁右欄)
 
 処方箋を箇条書きにしてもらえるとよかったのだが。

=== 
[M]
*宮津大輔.2010.5.現代アートを買おう!.集英社新書.[y735]


「偽科学」の未同定性/ニセ科学批判の迷妄

2010年08月18日 15時45分21秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月18日-3
「偽科学」の未同定性/ニセ科学批判の迷妄

 (いると仮定しての話だが)ニセ科学批判者たちが、一般的概念として科学を絶対的に崇めるのはいいとしても、なんらかの判断基準で或る主張や理論や営為をニセ科学と同定することがあるとすれば、それは論理妥当的ではなく、したがって非科学的である(科学度皆無(ゼロ)を非科学的という科学的の対極に定めることにする)。
 要は、或ることをニセ科学だと同定できたとするのは、根拠が無い。
 或る主張が間違っていましたと判明する(とみなされる)ことはあるだろう。しかし、もし、或る主張の論理性や経験的根拠を追求することにとどまらずに、これこれはニセ科学ですと主張するならば、ニセ科学だとする論拠または基準を無批判に祭り上げた独断的教義であり、悪い意味での宗教化である。或る派の科学教またはニセ科学教と呼んでもよいしろものとなる。

 科学が言及できる対象を、あらかじめ決めることはできない。科学的営為、したがって科学的知識(体系)は動的であり、とりわけその観測対象を拡げる(理論と相互依存的な)観測装置の出現によって大きく影響される。
 科学が言及できる対象を、あらかじめ決めることはできない。或る時点での科学知識体系とそれが用いる観測装置にもとづけば、しかじかであるという主張ができるのであり、或る主張を確証する営為は、また別のことである。そしてまた、一つや二つの実験や同様の追試で絶対的に確証されるわけでもない。少数の観測でもって確証度が高いと思うのは、綿密に設計され、かつ厳密に観測条件が整えられて支障無く実施された場合である。ここですでに、様々な段階で、究極のところは(正しく実施されたと)信じることにもとづいていることが明らかである。(われわれは何を指示しているのか、それは実験や観測の系で正しく同定されているかといった、やっかいな問題もある。)
 
 たとえば、個人ごとに異なる魂がその肉体から離れることが人の死であると(或る理論で)定義した場合、現在の科学的検出手段では、個人、肉体、そして人の死は指示または同定あるいは観測できるが、魂、個人ごとに異なる魂、そして、魂がその肉体から離れること、は、指示または同定あるいは観測できない(と思う)。

 指示される対象、言い換えれば言明の主語となるものが、(現在のところ)経験的に同定できない場合、われわれは「それ」や「それ」が関与する現象について、何も科学的なことは言えない。言えないことを、たとえば「魂というものは無い」ことが科学的結論ですとするのは、推論として誤りである。

 いわゆるUFOについても同様である。ただし、存在を否定することの困難さが特に関わっている。たとえば、わたしはUFOを見た、と主張する人がいるとする。すると、その主張の根拠とされた画像(フィルム上や電子的に記録されたもの)が調査される。(つづく)


 〔そういえば、地球外宇宙船が日本領空にやってきたとき、それを自衛的に迎撃するとすると、その根拠はとかの、国会での論議あったような、ちがったかな? すべては忘れ去られる……サヨナラだけが人生だ…………〕
 
 [作業仮説:時間は、意識-脳システムによる錯覚である]
 
 
[L]
*リベット,ベンジャミン.(下條信輔訳 2005.7)マインド・タイム:脳と意識の時間.xix+267+15pp.岩波書店.[Libet, Benjamin. Mind time : the temporal factor in consciousness] [y2,835]

*下條信輔.2008.12.サブリミナル・インパクト?情動と潜在認知の現代.ちくま新書.


説得性の無い「温暖化」論/モチモチ感が好き

2010年08月18日 10時42分05秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月18日-2
説得性の無い「温暖化」論/モチモチ感が好き

 暑い夏。米が豊作であることを願う。ただし、熱中症にならないように気をつけよう。
 モチモチ感を愛好し、さらには米粉でパンを作ることを流行らせよう。
 
 
 朝日新聞2010年8月18日の社説(3面)は、「温暖化対策 受け身脱し自前の戦略を」で、

  「地球規模の気候変動を実感させられる夏である。……
 地球温暖化の進行はこうした異常な気象、気候のブレを頻発させる」。

とある。「気象、気候」の「、」は、および、なのか、あるい、はなのか? あるいは、「異常な気象または気候、あるいは両方」なのか。
 気象なくして気候なし、つまり気候は長期統計的なもの(にすぎない)だと思うが、気象と気候は違いますという立論をしている場合があるから、区別すべきではないか。しかしひょっとして、「異常な気象、または気候のブレ、を」なのかもしれない。
 気候変動が実感されるものだとして、しかし実感しているのは、気象での変動であろう。どうも、よくわからん。
 そもそも、地球温暖化 global warmingという語では、極端現象などを含むようには見えないので、(衝撃性はかなり無くなるが)気候変動〔変化〕 climate changeという語に言い換えてきたのではなかったか。

 さて問題は、
  「地球温暖化(の進行)は、こうした異常な気象を頻発させる」のかどうか、
  「地球温暖化(の進行)は、こうした異常な気候のブレ(??)を頻発させる」のかどうか、

である。大衆に向かっての表現文ということかもしれないが、主張内容が一意に解釈できない。(おそらく当方の科学素養 science literacy〔日本語としては科学的素養と言うのがまともだと思うが、英語と対応づけるために、直訳にした〕が無いからだろう。)。

 また脱線気味になった。単に温暖化と捉えるのがまずいのであって、暑くなったり寒くなったりの幅が大きくなるとか、季節外れ的に大雪になるとか、局所的に急に大雨になるとか、といった、異常気象、あるいはその原因として想定される気象システムの、人にとっての、あるいは人間社会にとっての不都合である(或ることを想定することと、それを確証すること(作業)は別のことである)。

 科学や科学技術に関係する社説では、別途に紙面を用意するとかして、解説と文献を示すべきである。地球温暖化に関して、意見の異なる幾人かによる総説を掲載し、さらに相互批判と議論をして、少なくとも二人の大きく異なる論者による整理した論文を掲載したらどうだろうか。これは、日本学術会議が、色々とすべきことだろう。4月30日の公開シンポジウムの後、どんどん取り上げるべきである。エコカー減税だけでも数千億円の支出にもなるのだから。
 
 ところで、二酸化炭素削減の評価として、すべて製造物の生活環で考えているのだろうか(生活環評価 life cycle accessment)? (原子力発電所の放射性廃棄物製造については、生活環評価にかけるとどうなるのだろう? あるいはリスク評価は? 文献は?) 温暖化気体が問題だとして、それらの排出「速度」で考えているのだははどうなるのだろうか?

 いつのまにか、また脱線。
 (災害はこれまた様々な社会的要因などが絡むが、)「異常」気象が生じることは、問題だとする。
  <地球温暖化は、異常気象を頻発させる>
ではない言明として、
  <異常気象の頻発は、二酸化炭素排出などの人為的要素による地球温暖化によるのではない>
を取り上げる。産業革命が起きる前のいわゆる温室効果ガスの濃度が低い時期に、気温の変動が大きいことがあれば、<地球温暖化は、異常気象を頻発させる>は(その程度に)反確証される。

 (厳密に書こうとすると、ややこしい表現になってしまうのは、推敲不足と修行不足……)

 (あかん、振れの大きい気象は二酸化炭素排出による温暖化ではないとする、広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』に戻らねば……)



広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』/科学交達 science communication

2010年08月18日 00時40分44秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月18日-1
広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』/科学交達 science communication
 
 昨日の新聞の広告欄に載っていて知った、広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』。買い求めた、またもや大気汚染しつつ。
 
  〔2001年1月のIPCC第三次報告書に掲載されたホッケースティック状の〕「グラフがデタラメであることは、発表当初から私にはわかっていた。……しかし……特にドイツの自然保護運動家たちが、……放射能を出す原発も徹底的に攻撃していたので、……CO2温暖化説が蔓延しても軽視してきた。その私の判断が、大間違いであった。」(広瀬 2010: 30頁)。
 
というわけで、それが本書の執筆の動機の一つらしい。
 
 
 ところでなぜ、日本では新聞やテレビでほとんどクライメート〔気候〕ゲート事件は報道されないのだろうか?
 単に(少なくとも結果的には) <よらしむべし、知らしむべからず> であろう。あるいはひょっとして、両論併記の方針で温暖化懐疑論を掲載したら、多くの人は迷ってしまうのではないかという心遣いなのかもしれない。
 
 日本学術会議主催の公開シンポジウム「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題」において、科学コミュニケーションを専門とするらしい横山広美氏は、2010年4月30日に「IPCC問題が問いかけるもの:科学的作業、情報・倫理、科学者の行動規範」パネルディスカッションで、以下のように発言した。
 
  「また、IPCCの先生方がおっしゃったように、これは大きな事実に反することではなかった、という結論があったのにもかかわらず、欧米では非常に大きな問題になったと。そういうことはですね、先ほどご紹介したような政治的な背景が、やはり、かなり強いからであるという風に理解しております。

それに対してですね。日本ではあまり大きな話題にはならなかった。それは、やはり問題を問題として取り上げるのがメディアの対応だとは思いますが。これは、おそらく、大きな問題ではないんだという、メディア側の判断が働いて、大きく取り上げなかったという。

まぁ、そうしたことをですね。ひとつメディア側の本件に関してはですね、大事な見識であったのではないかと。わたくしは、この件に関しては、メディアの皆さんを高く評価したいという風に、僭越ながら、思っております。

それでですね。例えば、その両論があった場合、対応する議論が専門家の間で巻き起こっている場合にですね。両論併記をされると、どういう問題があったのかということを。」
 (100430_nihongakujutu_06_paneldiscussion.pdfより。
http://nagatsuki07.iza.ne.jp/blog/entry/1608578/)

と、述べた。
 プロパガンダ〔宣伝〕はどちらの陣営だってやるだろう。異論を報道して(科学的)議論を起こし、出来る限りデータにもとづいて、個々の議論を交通整理し、より良い結論を出す手伝いをするのが、報道メディアの使命の一つだと思うが、そうとは考えないらしい。
 このような現行のメディアよいしょ的態度、自分の頭でかんがえなくても良いです的方針は、科学コミュニケーション論での模範なのであろうか? そうではあるまい。このような発言が出てくるのはなぜかを、科学コミュニケーション論から論じるとどうなるのだろうか? 
 
 
 さて、ユニクロは冬用の暖かい下着を、冷房対策のためという需要があるので、夏にも売り出すという。たとえば部屋全体を冷やしておいて、身体は暖める。ここまでおかしくなってしまった日本社会。(むろんユニクロに責任はありません。安いので愛用しております)
 それにしても、何かを製造することは、多くの二酸化炭素と廃熱をどこかで出すことだろう。
 省エネはかけ声だけだったのか。地下鉄、新幹線、地下街、デパート、ホテル、喫茶店、レストラン、どこもかも寒すぎる。
 どこも例外無く摂氏28度以上に冷房設定するか、とりわけ都会は冷房を止めて、水を撒くとか諸々の工夫をする。そして、原子力発電を止める。火力発電も少なくする。
 真剣に石油依存から脱却したいならば、養老孟司氏が言うように、元から絶つのが確実である。エネルギー対策として石油を輸入したとしても、たとえば半分は備蓄し、後の半分だけで賄う。そのため、自動販売機は全廃する。コンビニとテレビ放送は夜10時まで。ラジオ放送は夜12時まで。など。
 
 
[H]
広瀬隆.2010.7.21.二酸化炭素温暖化説の崩壊.集英社新書.[y700+] [B20100817]