生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2010年9月3日(金)

2010年09月06日 15時11分03秒 | 美術/絵画
2010年9月6日-5
美術修行2010年9月3日(金)

 第26回繭の会展/帯広市民ギャラリーB1、B2。
 様々な素材を試しておしゃれな作品を作る宮澤克忠氏が指導する会の28+1人による出品である。紙粘土だろうか、を使って盛り上げた、多くの人の作品が並ぶ一角があったりする。
 宮澤克忠氏の作品は、いくつかの大きさの透明アクリル板を2~3枚重ねたもの。わたしは、このような明るい色使いが好きである。ところで、この透明板の配置は、どう分析あるいは層設定するか? 百貨店では、作品の保護のために、(側方だけでなく)前面を透明アクリル板で囲った展示をしている場合がある。この透明アクリル板の効果はどうなるのか。
 穴井亜紀子作品は、平原社展と同じものだと思うが、片面ダンボールなどをうまく張っていて、美しい。色を黒とか赤を基調にしているからだろう。
 
 時間が迫る。今日、場所を迷いつつも整理券を入手した、武田邦彦「私たちが未来の子供たちに残せる環境とは」の講演会場へと急ぐ。


書評とはなんだろう?/分類

2010年09月06日 13時37分09秒 | 生命生物生活哲学
2010年9月6日-4
書評とはなんだろう?/分類

 書評も様々で、軽く読めるものから難解なものまである。

  頁数が: 1頁←→無限頁
   (数行未満のものも、1頁に含める)

  字面的に:読みやすい←→読みにくい

  論理展開が: 非妥当←→妥当

  理解が: 容易←→困難

  など、など、

 「[書評]その科学が成功を決める(リチャード・ワイズマン)」
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/post-9afb.html
は、興味深い。
 ところで、その訳本から引用している文の、「人種偏見をもつ人々が集まると、個人でいるとき以上に人種問題について極端な決定を下すようになる」での「以上に」は、原文はmore(かover)で「よりも」ではないかと思う。

 「集団は暴走する」。わたしのような(たとえば座標軸設定探索のために)極端思考好きは、個人でも暴走するだろうから、自戒しなければ。


[W]
*ワイズマン,リチャード.(木村博江訳 2010.1)その科学が成功を決める.300pp〔Amazonの240頁は間違いのようだ〕.文藝春秋.[y1,700] [Oc159]


松井守男「宙」/新千歳空港内アート

2010年09月06日 12時32分50秒 | 美術/絵画
2010年9月6日-3
松井守男「宙」/新千歳空港内アート

 朝日新聞2010年9月6日G8面に、松井守男画伯の紹介があった。
 画像検索して見ると、1985年の「遺言」はなかなかよさそうである。これが気色良いのは、山形の光の破片のようなのが、繋がりとバラけとの均衡を取りつつ、うまく左にも拡げていることが一因だろう。そして、45度に交わる破片が、地の縦方向の筋と拮抗して映える。
 面想筆による油絵ということ
http://www.chanel-ginza.com/nexushall/2008/morio/
だから、近づいて細部を見ても白けず[註1]、全体の構図とその他(画像ではわからないが、たとえば画肌の感触)がよいのだろう。

 [註1]人の肉眼の解像度は、絵画に近づけば相対的に高まる。すると、具象では、たとえば人の肌は、絵具で構成されているから、絵具で作られた表面や絵具の塊や、あるいは絵具の筆跡(筆跡とは絵具の配置で作られるものを、われわれが筆跡と認識するものである)を「見る」ことになる。そこでは、人の肌は無い。あるいは、絵具の配置そのものへと解消または還元(=減少)される。
  松井作品の場合、おそらく、細部においても、線という「絵画としての」要素があるのだろう。要、実地調査。

 画像検索で、国内線1階に、松井守男「宙」があることがわかった。国内線3階の渡会純价「ARABESQUE-旅」と「ARABESQUE-愛」は見かけていたが、「新千歳空港内アート」として他にも色々あるとは知らなかった。「宙」と同じ1階には、日比野克彦「ORGANIC CIRCULATION」[有機的循環]もあるとのこと。
 
http://www.new-chitose-airport.jp/ja/service/?no=50
は、「新千歳空港内アート」の画像付き目録となっている。すばらしい。
 下方では地図があって、展示場所を示すらしい赤い印が点滅しているが、もっと大きな地図上に直接作者名か番号づけした番号を表示するか、もしくは、赤い印をクリックすると作者と作品名が出るようにすると便利。

 或る医院では松井守男作品4点があるらしい。
http://www.kanamarudental.com/art.html
 →[課題](あるとして)絵画療法のメカニズム。音楽療法の考え方の検討。

 松井守男作品のいくつかの画像から考えると、
 1. 基本要素は、線。つまり線描。
 2. 色数と構図の作品間変異は大きい。
 3. 作品内変異は、5段階で言えば、色数2くらい。
 4. 作品の層数は、2、2.5、または3くらい。
  (地と文ならば層数は2。ただし、展示壁面をも利用している作品では壁面を1と数える。同様に、支持体を絵画構成での層と成っている場合は、それも1と数える。フォンタナの切り裂きや穴あけ作品の場合、通常の画布面はのっぺりとしていて1。切り裂いている場合は画布が引き込まれたようになるので、その部分は仮りに0.5とする〔要検討→フラクタル次元的にできるかどうか〕。画布の下に布を張っているから、そのことで層数は、見えの上ではなく、「物理的に」(したがって見えの上でも)1増える。)

  (モダンアート展出品作品で、画布を大きく丸く切って裏側で留めた作品があった。当然、美術館の壁面が見えるし、十字状の木組みも見える。この場合、
    基底層(層1):壁面(おおよそ白。肌はのっぺり、ないし布目。)
    層2:木組み(茶色。肌は木。)
    層3以上:画布。
     層3:絵画面の基底層=地塗り的に作った場合は多くの場合、地塗り面。
     層4:文、つまり絵画の見えの上で存在させている対象が(むろん仮構的に)存在する層。
       通常の(たとえば透視図法的に)立体的な場合は、三次元と数えるやり方を採用してもよい。この場合は、地塗り面+3。
       われわれの世界は立体的に感じられるので、三次元空間としてとらえ得る。しかし、絵画の支持体は通常は平面である。ただし、円筒形や球体の表面を絵画とすることができる。考え見れば、彫刻作品であっても、物としての存在は三次元的なのだが、それはそもそも三次元空間というわれわれの認識枠組み、つまりわれわれの仮構(=構築体)である。われわれの肉眼は小さな眼球の小さな、外界と相対的には点とみなし得る場所から見ている。そして見ているのは、不透明な場合には、物の表面である。立体作品だと言っても、われわれが見ているのは、物体の表面である。或る作品では穴(穴は物体の欠落として認識される、非在である)を開けていて、向こうが見える場合でも(むろん、受け取り様はかなり異なってくるだろうが)見えるのは(不透明な場合は)表面である。

  要は、画布から数える層数は、見えまたは受け取り方の様式または規約に応じて、数え方を違えるのが、(様々な対象を)包括的にできるだろう。
  →空気遠近法。あるいは、たとえば雲のようなものを配置して(洛中洛外、源氏)、人や建物を隠すあるいは区切る場合。
  →画布上に様々な素材を張りつける場合。画布そのものを重ねる場合。立体物を張りつける場合。など、など、。


美術修行2010年9月2日(木)

2010年09月06日 01時27分43秒 | 美術/絵画
2010年9月6日-2
美術修行2010年9月2日(木)

 iPhoneでジョルダる。新千歳空港から札幌まで1,040円。ならば、新札幌までで850円と、地下鉄で新さっぽろからバスセンター前まで280円。新札幌を見学。踊り場にアートの展示。創業昭和30年という店の、昔の素朴なラーメンを食べた。

 第55回記念新北海道美術協会展/札幌市民ギャラリー/600円。講評集16頁、100円。会友と一般入選の一作品について、25字詰めで3~4行の講評文。
 格段に新らしい趣向のものは無かった。
 良かったのは、甲斐野弘幸「跫(アシヲト)ー'10」(アクリル、水彩、ガッシュ)。いままでに見たのとはだいぶ異なる。大胆な構図とやや重厚な色面の感触と四角く囲んだ大きな線が相まって面白い。白っぽい四角は弾かせているのだろうか。
 伊藤みゆき「CRIMSON」(インスタレーション)。おそらく板パネルの上に、ひも状のものなどを固めている。この黒をなんとか変異させるともっと面白くなるかも。
 中野義夫「宙からのHーAE」(油彩)。蝿の頭と前胸を画面いっぱい近くに、上方むけて描いている。もっとシュールにするには、剛毛を丁寧に、かつ、長過ぎるくらいとか、くねくねさせるとか、細いのを密集的に描くとかしたら、面白いかも。

 高橋喜代史 個展 ハイブリッドIII そして伝説へ…/CAI 02 raum。大きな機械と、大きなグの文字。煙が漂っていたので草々に退散。

 夏の終りに…/ギャラリーたぴお。

 
 上野小夜美展~没後15年~/札幌時計台ギャラリーA室、C室。
 「上野小夜美展~没後15年~」という42頁の画集をいただいた(無料配布のもよう)。造形作品の、画集の番号で26-29、32、33-34、35-37が面白かった。15年前にパリで客死とのことだが、型破りで斬新でおしゃれ。
 荒巻義雄氏の「パリに死す」(5頁)という文に、
  「それにしても早すぎる死だ。
   美術は六十、七十という齢を重ねて、やって自分自身を見つけられるものだから。」
とある。
 また、
  「美術を志す者が必ず罹る病がある。それは前例のないもの、誰でもないもの、自分自身である。この独創性つまりオリジナリティが難しい。……
   だが、人生を賭けずにはいられない衝動に駆られ、人は美術家の道を歩み出す。」
と、述べている。

 岩田ひとみ個展/札幌時計台ギャラリーF室。

瞑想とデフォルト・ネットワークというちんぷんかんぷん

2010年09月06日 00時56分38秒 | 生命生物生活哲学
2010年9月6日-1
瞑想とデフォルト・ネットワークというちんぷんかんぷん

 昨日のテレビで、或る人が認知症防止に40分瞑想しているというのに関連して、茂木健一郎氏が、うろ覚えだが、
  「瞑想とは、ボケーとしているのではなくて、デフォルトネットワークが休んでいる」
というような、ことを言っていた。
 ちがったかな? 考えているときは、デフォルト・ネットワークは休んでいるのか? なら、瞑想状態とはデフォルト・ネットワークが働いている状態なのか?
 検索すると、ここでのデフォルトとは、何もしないこと、らしい。しかし、ネットにはきちんとした定義は見当たらなかった。
 健康な人が空想中は、初期ネットワーク(default network)が活動していて脳の準備段階にいる、つまり脳がアイドリングしていて、アルファ波が観測される状態と言う人がいる。
http://d.hatena.ne.jp/mayumeto/20100514

 「瞑想は脳を休める状態とは違い、無意識・休息時に働く脳回路(デフォルト・ネットワーク)を活性化させる行為である」
http://nov26.seesaa.net/article/161669052.html

 ここには、「エチカの鏡で紹介、専門家13人が自ら実践するボケを予防する方法」とあるので、わたしが見たのは、エチカの鏡という番組の再放送だったらしい。

 結局、デフォルト・ネットワークとは、なんじゃらほい? 実在するのか? 脳でのセロトニン分泌は測定できるのか?
 なんにしろ、カフェで40分瞑想する、というならば、それはおそらく瞑想ではないだろう。