新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

順不同の大阪&奈良旅行記(その4)

2012-02-05 16:39:02 | 旅行記

JR東京駅丸の内駅舎の正面から皇居に向かって伸びる大通り「行幸通り」の両側に、まるで山門の仁王様のように、丸ビル新丸ビルがそびえ立っています。

丸ビルの正式名称は「丸の内ビルディング」、新丸ビルのそれは「新丸の内ビルディング」です。
あれ? 確か、どちらも「(新)丸の内ビルヂング」じゃなかったかな? と思ったら、両ビルとも、建て替え(現在の丸ビルは2002年竣工、新丸ビルは2007年竣工)を期に、「(新)丸の内ビルディング」に改称したようです。
ビルヂング」の方が趣きと歴史が漂ってステキなんだけどな…

ビルヂング」はさておき、新しい丸ビルが竣工して旧い新丸ビルが現役だった期間、「丸ビルより新丸ビルが古い」というビミョーな状況にありました。
丸ビルの建て替えを機に、新丸ビルの「」は、NEW」「Laterといった時間的な意味を失って、固有名詞の一部になったということなのでしょう。

今回の旅行記を書くにあたっていろいろ調べる中で、奈良の古刹「新薬師寺」の「」も、西ノ京にある薬師寺に対比しての「新(NEW)」ではないという説があることを知りました。
こちらのサイトでは、

新薬師寺の由来は西ノ京の薬師寺に対して「新しい」のではなく、本尊の薬師如来がもたらす新たなる霊験利益を「」と表しています。

また、こちらのサイトでは、

よく言われることですが、新薬師寺という名前は「新しい薬師寺」ではなく、「霊験新たかな薬師如来さまを祀ったお寺」という意味で、西ノ京の薬師寺とは全く無関係です。

と説明されていますが、まだ裏がとれていません

   

というわけで、「順不同の大阪&奈良旅行記(その3)」のつづきは、私にとって初めての訪問となった新薬師寺のお話です(前振りが長いゾ)。

春日大社への参拝&見物を終えた私は、上の禰宜道を通って神域の外へ抜けました。

まだ11:30でしたが、ちょっと腹が減ってきたぞと思ったところで、都合良く蕎麦屋を見つけたものでしたから、早めの昼食を摂りました。

と、このソバ(天ざる)が美味しい

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普段、質的に貧しい食生活をしている私にとって、かなり久しぶりにおいしさを感じるソバを食べることができ、かなり気分が盛り上がってきました

   

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細い道に左折してちょいと行くと、新薬師寺東門があり、塀越しに建物が見えました。

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この時は判りませんでしたが、実はこの建物、新薬師寺本堂でした…

それはともかく、南門で拝観料を納めて、境内に入りましょう。

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境内に入るとっつうか、南門越しに本堂ど~ん

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三つの木の扉と連子格子の無い白壁、そして、入母屋の瓦屋根と、極めてシンプルで清々しい建物です。

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決して大きな建物ではないけれど、軽やかで爽やかで、好きだなぁ~

この本堂、新薬師寺のHPによれば、

なだらかな曲線の大屋根と大きな白壁が、堂々とした天平建築を表しています。創建当初は金堂(本堂)ではなく別の目的のお堂でした。内部は土間に太い柱が立つ、簡素で力強い造り。天井は屋根裏がなく、化粧屋根の構造が直に見ることができます。貴重な奈良時代・創建当初の建造物です。

とあって、もともと本堂用の建物ではなかったそうです。

2年前、NHKが「復元 幻の大寺院~新薬師寺・天平の謎に挑む~」という番組を放送し、私はBlu-rayディスクで残しています。

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2008年秋、古都・奈良で古代史を書き換える大発見があった。平城京最後の謎と言われ、その位置すら分からなかった天平時代の新薬師寺の金堂跡が発掘されたのである。その規模は、驚くことに、世界最大の木造建造物・東大寺大仏殿をしのぐものであった。
奈良時代の絵図にわずかにその姿をとどめるだけだった、七体の薬師如来が祀るという巨大な寺院。その伽藍にはどんな風景が広がっていたのだろうか。金堂から60m離れた伽藍中心線から出土した謎の柱。奈良三彩の破片や小壺。発掘をもとに祈りの風景を再現する中から、中国や、はるか中央アジアとの交流の姿が浮かび上がってきた。

というお話で、「天平時代の新薬師寺の金堂」は、現在の新薬師寺の西、数百mにある奈良教育大の敷地(下のGoogleマップでは左下のグラウンド)にあったらしいのです。

天平時代の新薬師寺は、新薬師寺のHPによると、

創建から33年後の宝亀11年(780)、落雷により建物のほとんどが焼失しました。

だとか。

では、「天平時代の新薬師寺」から現在の新薬師寺にはどうつながるのでしょうか?
また、現在の新薬師寺の本堂は焼け残った「天平時代の新薬師寺」の伽藍の一部なのでしょうか?
本堂に鎮座している天平時代の傑作「十二神将」は、どこからやってきたのでしょうか?

新薬師寺のHPからもう一度から引用しますと、

金堂は平安時代に倒壊。いつの頃からか、他の目的で使用されていたお堂が金堂(現本堂)に転用されました。堂内の薬師如来坐像は平安初期の制作です。回りの十二神将立像は奈良時代の作ですが、もとは新薬師寺のものではなく、近くの岩淵寺(いわぶちでら)から移したものと伝えられています。

だそうな。

ということは、「天平時代の新薬師寺」を今に伝えるものは、現在の本堂だけなんですな…

   

それはそうと、本堂に入ってみますと(当然のように撮影禁止ですから、買ってきたポストカードを利用します)、

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ほわぁ~ なんと凄い…

十二神将は、イメージしていたものより小さくて、160cmくらい≒当時の日本人の等身大(?)でしょうか。

でも、伝わってくる迫力がハンパありません。(こちらJR東海CFは良くできてる

グルグルと3周して、間近にじっくりと拝見させていただきました

本堂の解体修理が行われない限りあり得ないことでしょうが、仮に薬師如来様・十二神将様ご一行が東下されて、東博辺りで特別展が開かれたりなんぞした日には、かの「国宝 阿修羅展」並の大混雑になりそうな気がします。

それが、私が訪れた時、堂内で拝観していた人はホンの数名だけ。
なんとも贅沢至福のひとときでした。

120205_1_09 やはり十二神将の中では、このブログでも取り上げた(記事はこちらこちら迷企羅大将(寺伝・伐折羅大将)が一番でした。
いやはや、カッコイイ

ところで、十二神将それぞれの前には燭台が置かれていて、1本30円でローソクを買ってお供えできるようになっていました。

どの十二神将にもローソクが上げられているかと思いきや、一体だけ淋しく、ローソクなしの神将さまがいらっしゃいまして、かわいそうなので、私がローソクをお供えいたしました

その神将さまがこちら、

120205_1_10珊底羅(さんてら)大将」です。

何か珊底羅大将御利益がやって来るものでしょうか?

前記のとおり、十二神将天平時代の作ですが、ご本尊の薬師如来坐像はちょいと時代が下って平安時代の作だそうで、見た目、明らかに作風が違っていました。

120205_1_11 目がクリッとして、福々しいお顔つきで、人が良さそうというか、かわいらしいというか、癒やし系の仏さまです。
でも、十二神将とのバランスがちょっと良くない気がします。

まぁ、十二神将たちが「守ってあげたい」と思うような仏さんと言えないこともありませんな…

それにしても、何度も書きますけれど、これほどの名品を、間近に、じっくりと心ゆくまで拝観できるなんて、そうそう体験できることではないと思いました。

   

ところで、ほとんど白っぽい十二神将さまですが、ところどころが残っている十二神将さまがいらっしゃいました。

製作当初は、極彩色に彩られていたそうで、上に載せたJR東海のCFでも色鮮やかな伐折羅大将のお姿が登場しています。

この色復元のCG作成作業こちらのサイトでご覧になれますぞ。

つづき:2012/02/08 順不同の大阪&奈良旅行記(その5)

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