新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

順不同の大阪&奈良旅行記(その8)

2012-02-13 06:12:18 | 旅行記

ふと、ここ5年の間に何回の関西旅行(privateな旅行)を決行したのかを数えてみました。
すると、2007年に2回、2009年に2回、2010年に1回、2011年に2回、そして今年も早くも決行済みなわけで、合計8回ですから結構な頻度です。
しかも、この8回のうち、奈良まで足を伸ばしたのが6回もあって、私の奈良好きが現れております。また、奈良の中で2回以上足を運んだスポットとしては、
2回奈良国立博物館記事)、薬師寺記事1, 記事2)、平城宮跡記事1, 記事2)、


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東大寺3回記事)、


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そして第一位は、2007年12月、2009年12月(記事)、2010年8月(記事)、2012年1月と4回訪問したこちら、


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興福寺です


というわけで、「順不同の大阪&奈良旅行記(その7)」のつづきは、私が大好きな興福寺


   


120213_1_04_2興福寺に来るたび、欠かさず訪れるのは、もちろん国宝館です。はるばる興福寺にやって来て、国宝館を観ないのはもったいない
今回も、入館しました。そして、もうおなじみになってしまった仏さまほか1年半ぶりのご対面を果たしました。


何回来ても、国宝館の展示は凄い


この日は、新薬師寺十二神将像を拝見し(記事はこちら)、東大寺ミュージアムでは不空羂索観音日光・月光菩薩像を始め寺宝の数々を拝見して(記事はこちら)、「」に対して慣れてしまって、鈍感になってしまった(贅沢になってしまった)かもしれないと思ったのですが、そんなことはありませんでした


相変わらず阿修羅さまを始め八部衆像ステキだし、十大弟子像はリアルかつ精神性豊かだし、山田寺の仏頭は癒してくれるし、金剛力士像カッコイイし、十二神将像は楽しいし、千手観音立像は巨大かつ荘厳だし、天燈鬼と龍燈鬼(下の画像)は何度来ても「お持ち帰り」したくなるし、で、何なのでしょうか、この質の高さと密度の高さ


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いやぁ~、幸せだなぁ~


   


興福寺では7度目中金堂再建に取り組んでいます。


710年(「なんと大きな平城京」ってやつ)の創建から、7回も焼失したこと自体驚きですが、その度に再建されたことも驚き、いやいや、それ以上に、これほど何度も火災に遭いながら、あれだけのお宝が現代に伝えられていることが最大の驚きです。


一番最近の焼失は、応永6年(1399)に再建された7代目だそうで、興福寺のHPによると、


江戸時代享保2年(1717)のことでした。講堂に入った盗賊が灯りに用いた火が燃え移り、中金堂も焼失します。


とのこと。盗賊の失火とは困った話ですが、それでも、「興福寺の僧侶同士の争いで、中金堂に火が放たれて焼失」した6代目よりはマシかもしれません

ただ、7度目の再建には苦労したようで、


再建を要請された将軍吉宗からは、徳川家が興福寺を造立した前例はない、また興福寺には毎年修理料として1,000石余りをあたえているのだから、それでまかなうようにと、すげなく断られます。
  <中略>
もちろん藤原氏に地位や名誉はあっても、金と力はありません。このようなきびしい状況の中でも、幕府から3,000両の寄付金を引き出し、興福寺の宝物を江戸や、京都御所、清水寺、大阪生玉社などへ持ち込んだりして、資金調達に奔走します。その結果、火災から約100年を経た文政2年(1819)に、奈良町の人々の寄進によって、本来の規模よりもひとまわり小さな仮堂が建てられました。


とな。
その仮堂は、興福寺最大の受難の時期=明治初期こちらの記事をご参照方)に警察署や県庁、郡役所などとして使われたのち、再び仮金堂として使われ、老朽化を理由として2000年に解体されたそうです。


そして、今、2018年の落慶を目指して再建工事が進められています。


約4年前(2007年12月)にはこんな状況、


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そして、約2年前(2009年12月)にも、


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だった中金堂の基壇は、1年半前(2010年8月)には、


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工事用の覆い(手前のは作業場で、奥のが中金堂用の覆いっぽい)ができていて、そして今回の訪問時には、


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巨大な中金堂用の覆いができあがっていました。


昨年10月に立柱式が行われたようですが(こちらのサイトをご参照方)、透けて見える覆いの内部はまだスカスカ…


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落慶はまだ6年も先のことですから、現時点ではこんなものかもしれません。


中金堂のあとには、中門回廊の復原も予定されているそうで、それらを含めた「第一期整備事業」が「平成10年~35年」の足かけ26年というのですから、なんとも気の長い話です…


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つづき:2012/02/14 順不同の大阪&奈良旅行記(その9)

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