ふと、ここ5年の間に何回の関西旅行(privateな旅行)を決行したのかを数えてみました。
すると、2007年に2回、2009年に2回、2010年に1回、2011年に2回、そして今年も早くも決行済みなわけで、合計8回ですから結構な頻度です。
しかも、この8回のうち、奈良まで足を伸ばしたのが6回もあって、私の奈良好きが現れております。また、奈良の中で2回以上足を運んだスポットとしては、
2回が奈良国立博物館(記事)、薬師寺(記事1, 記事2)、平城宮跡(記事1, 記事2)、
そして第一位は、2007年12月、2009年12月(記事)、2010年8月(記事)、2012年1月と4回訪問したこちら、
興福寺です
というわけで、「順不同の大阪&奈良旅行記(その7)」のつづきは、私が大好きな興福寺。
興福寺に来るたび、欠かさず訪れるのは、もちろん国宝館です。はるばる興福寺にやって来て、国宝館を観ないのはもったいない
今回も、入館しました。そして、もうおなじみになってしまった仏さまほか
と1年半ぶり
のご対面を果たしました。
何回来ても、国宝館の展示は凄い
この日は、新薬師寺で十二神将像を拝見し(記事はこちら)、東大寺ミュージアムでは不空羂索観音や日光・月光菩薩像を始め寺宝の数々を拝見して(記事はこちら)、「美
」に対して慣れてしまって、鈍感になってしまった(贅沢になってしまった)かもしれないと思ったのですが、そんなことはありませんでした
相変わらず阿修羅さまを始め八部衆像はステキだし、十大弟子像はリアルかつ精神性豊かだし、山田寺の仏頭は癒してくれるし、金剛力士像はカッコイイし、十二神将像は楽しいし、千手観音立像は巨大かつ荘厳だし、天燈鬼と龍燈鬼(下の画像)は何度来ても「お持ち帰り」したくなるし、で、何なのでしょうか、この質の高さと密度の高さ
いやぁ~、幸せだなぁ~
興福寺では7度目の中金堂再建に取り組んでいます。
710年(「なんと大きな平城京」ってやつ)の創建から、7回も焼失したこと自体驚きですが、その度に再建されたことも驚き、いやいや、それ以上に、これほど何度も火災に遭いながら、あれだけのお宝
が現代に伝えられていることが最大の驚き
です。
一番最近の焼失は、応永6年(1399)に再建された7代目だそうで、興福寺のHPによると、
江戸時代享保2年(1717)のことでした。講堂に入った盗賊が灯りに用いた火が燃え移り、中金堂も焼失します。
とのこと。盗賊の失火とは困った話ですが、それでも、「興福寺の僧侶同士の争いで、中金堂に火が放たれて焼失
」した6代目よりはマシかもしれません
ただ、7度目の再建には苦労したようで、
再建を要請された将軍吉宗からは、徳川家が興福寺を造立した前例はない、また興福寺には毎年修理料として1,000石余りをあたえているのだから、それでまかなうようにと、すげなく断られます。
<中略>
もちろん藤原氏に地位や名誉はあっても、金と力はありません。このようなきびしい状況の中でも、幕府から3,000両の寄付金を引き出し、興福寺の宝物を江戸や、京都御所、清水寺、大阪生玉社などへ持ち込んだりして、資金調達に奔走します。その結果、火災から約100年を経た文政2年(1819)に、奈良町の人々の寄進によって、本来の規模よりもひとまわり小さな仮堂が建てられました。
とな。
その仮堂は、興福寺最大の受難の時期=明治初期(こちらの記事をご参照方)に警察署や県庁、郡役所などとして使われたのち、再び仮金堂として使われ、老朽化を理由として2000年に解体されたそうです。
そして、今、2018年の落慶を目指して再建工事が進められています。
約4年前(2007年12月)にはこんな状況、
そして、約2年前(2009年12月)にも、
だった中金堂の基壇は、1年半前(2010年8月)には、
工事用の覆い(手前のは作業場で、奥のが中金堂用の覆いっぽい)ができていて、そして今回の訪問時には、
巨大な中金堂用の覆いができあがっていました。
昨年10月に立柱式が行われたようですが(こちらのサイトをご参照方)、透けて見える覆いの内部はまだスカスカ…
落慶はまだ6年も先のことですから、現時点ではこんなものかもしれません。
中金堂のあとには、中門や回廊の復原も予定されているそうで、それらを含めた「第一期整備事業」が「平成10年~35年」の足かけ26年というのですから、なんとも気の長い話です…
つづき:2012/02/14 順不同の大阪&奈良旅行記(その9)