新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その4)

2012-07-16 15:08:45 | タウンウオッチング

「フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その3)」のつづきなんですが、これ以降、フェルメールは登場しませんのであしからず…


私が上野駅から東京国立博物館(東博)に向かう場合、もっぱら国立西洋美術館の角を右に曲がり、国立科学博物館の前を通るコースを取るのですが、今回は噴水池の西側を通って東博に向かいました。


120716_2_01 右の地図で、青い線がいつものコースで、赤い線が今回のコースです。


いつもと違うコースを通ったら、何度来たか判らないほどの上野公園なのに、初めて見るものが三つありました。


まず、歌川広重「東都名所 上野 東叡山 全図」の碑。


120716_2_02 こちらでも書いたように、江戸時代には上野公園全域が東叡山寛永寺の寺域でした。
この碑ではよく判りませんが、寛永寺のHPのしょっぱなに掲げられた原画(浮世絵版画)を見ると、根本中堂を始めとした堂宇はまったく無くなっているものの、多くの人たちが集まる行楽スポットであることは昔も今も変わらないようです。


120716_2_05


上野戦争で上野の山が焼け野原になった後、この地は、大学病院の建設予定地になったのだそうで、これが実現していたら、今のような上野公園にはなっていなかったはず。


大学病院建設計画を変更させた方胸像が建っていました。


120716_2_03 碑文を転記しますと、


オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。


とあります。
この胸像は、ボードワン博士「公園の生みの親であると同時に、上野の街の救世主」とも仰ぐ(?)上野観光連盟があちこちに働きかけて建てたものだそうです。
その経緯は上野観光連盟のHPに詳しいのですが、そこにとても面白い(当事者には面白いどころではないでしょうけれど)話が載っています。
この「ボードワン博士像」は2006年10月に建てられた「二代目」「上野恩賜公園開園百年」といえば1973年10月ですから、わずか30年ちょっとで代替わりしたことになります。
これには訳があって、


博士像に隠された秘密。それはなんと、初代の像は博士ではなく、博士の弟さんだったのです。像を造る時に渡された写真が間違っていたそうです‥。ちなみに弟さんは、オランダの駐日領事だったとか。


ですって
おぉ、こんなことがあるんですねぇ…


もっとも、上野のシンボル西郷隆盛像だって、こちらで書いたように、


今、日本人がイメージする西郷隆盛さんの姿・顔立ちは、西郷さんご本人に会ったこともないキヨッソーネが、西郷従道さんと大山巌さんの顔を合成して書き上げた肖像画が元になっていることは、結構知られた話です。


かなり信頼性に乏しいキヨッソーネが描いた肖像画を元にしているわけですから、実際に会った人が生きていない状況では仕方のないことかもしれません。


話を江戸時代に戻しますと、「東都名所 上野 東叡山 全図」の碑のすぐ後ろに、こんな説明板が立っています。


120716_2_04 抜粋しますと、


江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が立ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台(だい)」と呼ぶ。そこには廻廊がめぐらされ、勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。<中略>中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」と呼ばれた。
竹の台はその名によるものである。慶応4年(1868)5月15日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。


という次第。「竹の台」の由来を知ることができました


ちなみに、現在の寛永寺の根本中堂は、1879年に川越の喜多院から移築されたものなのだとか(喜多院の訪問記こちらこちら)。


次回は東博の展示のお話です。


つづき:2012/07/22 フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その5)

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フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その3)

2012-07-16 10:46:56 | 美術館・博物館・アート

「フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その2)」のつづきは、国立西洋美術館での「ベルリン国立美術館展」


120716_1_01入場待ちの列が伸びていた「マウリッツハイス美術館展」@東京都美術館とは違って、こちらは待ち時間なしですんなりと入場できました


そして、、、「第1章 15世紀:宗教と日常生活」では、予想に反して、多くの彫刻・レリーフが展示されていました。それはそれで構わないのですが、キリスト教徒でもなく、キリスト教関連の美術にさほど興味を持てない私にとっては、何点もの聖母子像やら何点もの「龍を退治する聖ゲオルギウス」を観るのはちょっと退屈

それでも、なかなか美少年「福音書記者聖ヨハネ」(彫刻)はよござんした


120716_1_02 「第2章 15-16世紀:魅惑の肖像画」では、さほど「魅惑」してくれる作品には出会えなかったものの、やはり教科書で見た「マルティン・ルターの肖像」は、ほぉ~っとしげしげと拝見させていただきました。


この「マルティン・ルターの肖像」の作者は、「ルーカス・クラーナハ(父)の工房」とされています。

クラーナハさんが個人でクレジットされている作品が「第3章 16世紀:マニエリスムの身体」で展示されていました。


120716_1_03 「ルクレティア」です。

ルクレティアは人名でして、こちらを引用しますと、


前510年ごろ没したとされる,古代ローマの伝説上の貞女。伝説によれば彼女はタルクイニウス・コラティヌスの美貌の妻であったが,ローマ王タルクイニウス・スペルブスの子セクストゥスに強姦され,親族に復讐を託して自害した。彼女の死は王一族の暴政に対するローマ市民の憎悪をかきたて,彼らは蜂起して王を追放し,共和政を樹立したと伝えられる(前509)。


だそうで、クラーナハの作品は、まさに自害しようとするルクレティアを描いたもの。

でも、なんですっぽんぽん自害しなくてはならないのでしょうかねぇ… また、同じクラーナハの「ヴィーナス」とそっくりだし…


どうもパッと来る作品が少ないなぁ~と思いつつ、「第4章 17世紀:絵画の黄金時代」


このコーナーは、ベラスケスレンブラントルーベンス、そしてフェルメールと、おおどころが妍を競っていました


そんなおおどころの作品の前に、こちらの作品に見入ってしまいました


120716_1_05_2

ヤン・ダヴィドゾーン・デ・ヘーム「果物、花、ワイングラスのある静物」です。

とても17世紀の作品とは思えない素材・描写・美しさ

この作品に惹き付けられるのは私だけではないようで、「真珠の首飾りの少女」に次いで多くの観客を集めていました。


私、デ・ヘームなる画家をこの時までまったく知りませんでした
ところが、この後に観た国立西洋美術館常設展でもデ・ヘームの作品が展示されていました、、、


120716_1_06_2


って、こちら「果物籠のある静物」は、ヤン・ダヴィドゾーン・デ・ヘームのご子息:コルネリス・デ・ヘームの作品でした

調べてみると、マウリッツハイス美術館は多くのヤン・ダヴィドゾーン・デ・ヘームの作品を所蔵しているようで、もしかすると「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」にも来ているかもしれませんナ。


さて、この展覧会では「第4章 17世紀:絵画の黄金時代」が一番楽しめました


ただ、残念だったのはレンブラント「ミネルヴァ」ライティング

背景に「メデューサの頭が描かれた盾」が描かれているらしいのですが、絵の表面がテカテカと光ってよく見えません 角度を変えて見ても、やはりダメ
国立西洋美術館ともあろう会場で、こんなライティングをするなんて、ちょっと信じがたい
こんな不満を持つのは私だけではなさそうだし、この展覧会が始まって1か月が過ぎているというのに、修正するつもりはないのでしょうかねぇ…


120716_1_04 一方、「ミネルヴァ」の隣りに展示されていたレンブラントによる「黄金の兜の男」は、暗い画面の中、黄金の兜が光り輝くようで、いかにもレンブラント派 でした


そして、この展覧会の目玉フェルメール「真珠の首飾りの少女」


さすがに、結構ユルユルに観られた「ベルリン国立美術館展」では特段人だかりしています。

それでも、ちょっと辛抱(がまん)すれば、近くから観ることができました。
やはりいいなぁ~
柔らかい光が、いかにもフェルメール


120716_1_07 ところで「真珠の首飾りの少女」の女の子、「フェルメールからのラブレター」展(記事はこちら)で観た「手紙を書く女」の女の子ですよね。

宮城県美術館でこの作品を観たときよりも、ずっとゆったり「真珠の首飾りの少女」を観ることができたのは、閉館1時間前という時間帯もあったのでしょう。
やはり混んでいる展覧会は、焦らなくてすむ程度に閉館間際が良さそうです。


さて、「第5章 18世紀:啓蒙の近代へ」では、ヨハン・ゲオルク・ディル「戴冠の聖母」(彫刻デス)が良かったぁ~

120716_1_08 もしかすると、この展覧会では一番「お持ち帰りしたい作品」だったかもしれません。

衣装のヒダヒダがステキだし、お顔立ちが端正で麗しいし、なにより素材の砂岩の質感すんごくいい

衣装はのような滑らかな生地ではなく、麻か綿のちょっとゴワゴワした生地なのではなかろうかと思えます。もしこの作品が大理石で創られていたら、まったく違う印象なんでしょうねぇ。


最後の「第6章 魅惑のイタリア・ルネサンス素描」では、ダンテの「神曲」の挿絵、ボッティチェッリの素描に人が群れていました。

ちょうど、日本美術の展覧会で絵巻物を観るのが大変なのと似た感じで、もしかすると、この作品が一番観るのが大変だった気がします。


個人的にもさほど興味が無いし…と、これで「ベルリン国立美術館展」の鑑賞はおしまい


ここまで読んでいただいて感じられると思いますが、個人的には「ちょっと…」な展覧会でした。
「ミネルヴァ」のライティングの問題だけでなく、各セクションのタイトルがイマイチだし、展覧会のサブタイトル「学べるヨーロッパ美術の400年」センスが悪いし、作品も私にとっては退屈なものが多かったし…。


とかなんとか言いながら、「真珠の首飾りの少女」をあしらったポスター(B2サイズ)と「果物籠のある静物」額絵おみやげに買いましたとさ。


つづき:2012/07/16 フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その4)

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