「フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その3)」のつづきなんですが、これ以降、フェルメールは登場しませんのであしからず…
私が上野駅から東京国立博物館(東博)に向かう場合、もっぱら国立西洋美術館の角を右に曲がり、国立科学博物館の前を通るコースを取るのですが、今回は噴水池の西側を通って東博に向かいました。
右の地図で、青い線がいつものコースで、赤い線が今回のコースです。
いつもと違うコースを通ったら、何度来たか判らないほどの上野公園なのに、初めて見るものが三つありました。
まず、歌川広重の「東都名所 上野 東叡山 全図」の碑。
こちらでも書いたように、江戸時代には上野公園全域が東叡山寛永寺の寺域でした。
この碑ではよく判りませんが、寛永寺のHPのしょっぱなに掲げられた原画(浮世絵版画)を見ると、根本中堂を始めとした堂宇はまったく無くなっているものの、多くの人たちが集まる行楽スポットであることは昔も今も変わらないようです。
上野戦争で上野の山が焼け野原になった後、この地は、大学病院
の建設予定地になったのだそうで、これが実現していたら、今のような上野公園にはなっていなかったはず。
大学病院建設計画を変更させた方の胸像が建っていました。
オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。
とあります。
この胸像は、ボードワン博士を「公園の生みの親であると同時に、上野の街の救世主」とも仰ぐ(?)上野観光連盟があちこちに働きかけて建てたものだそうです。
その経緯は上野観光連盟のHPに詳しいのですが、そこにとても面白い(当事者には面白いどころではないでしょうけれど)話が載っています。
この「ボードワン博士像」は2006年10月に建てられた「二代目」。「上野恩賜公園開園百年」といえば1973年10月ですから、わずか30年ちょっとで代替わりしたことになります。
これには訳があって、
博士像に隠された秘密。それはなんと、初代の像は博士ではなく、博士の弟さんだったのです。像を造る時に渡された写真が間違っていたそうです‥。ちなみに弟さんは、オランダの駐日領事だったとか。
ですって
おぉ、こんなことがあるんですねぇ…
もっとも、上野のシンボル、西郷隆盛像だって、こちらで書いたように、
今、日本人がイメージする西郷隆盛さんの姿・顔立ちは、西郷さんご本人に会ったこともないキヨッソーネが、西郷従道さんと大山巌さんの顔を合成して書き上げた肖像画が元になっていることは、結構知られた話です。
かなり信頼性に乏しいキヨッソーネが描いた肖像画を元にしているわけですから、実際に会った人が生きていない状況では仕方のないことかもしれません。
話を江戸時代に戻しますと、「東都名所 上野 東叡山 全図」の碑のすぐ後ろに、こんな説明板が立っています。
江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が立ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台(だい)」と呼ぶ。そこには廻廊がめぐらされ、勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。<中略>中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」と呼ばれた。
竹の台はその名によるものである。慶応4年(1868)5月15日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。
という次第。「竹の台」の由来を知ることができました
ちなみに、現在の寛永寺の根本中堂は、1879年に川越の喜多院から移築されたものなのだとか(喜多院の訪問記はこちらとこちら)。
次回は東博の展示のお話です。
つづき:2012/07/22 フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その5)