Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●『別丁 石川真澄 という人がいた』読了(1/3)

2008年11月13日 07時57分40秒 | Weblog

別丁 石川真澄 という人がいた』、10月に読了。筑紫哲也編集 (1のコメント: 先日お亡くなりになりました)。私家版。20057月刊。裏表紙は「選挙分析のための統計ノート」。

絶筆となった『戦後政治史 新版』(岩波新書) の序文から始まり、まず、「偲ぶ会」の記録。朝日新聞関係者 (国正・黒川・柴田・下村・竹内・深津・本多さんら) の「同じ釜の飯」、岩見・岡留・國弘・辻元さんらによる「出会い」、山口さんらによる「学究」、最後に「人・市民」。

「日本人の歴史観の鈍さ浅さを慨嘆して尽きなかった」(p.28)。「彼は・・・尊敬する先輩から、「人々が無関心なままに過ごしているとき、いち早く兆候を察知してたいへんだと声をあげろ。逆に人々が常軌を逸して過熱状態になったときは、待てよと冷静な自分に立ち帰れ」と教えられたという。その初心を貫いた生涯」(p.30)。「小選挙区制礼賛の大合唱のなか、敢然と「反対」を貫いた」(p.54)。そして、「権力者に決して寄り添おうとしない姿勢・・・生来の素質」(p.50)。「生涯を通して反体制を貫いた」(p.121)
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●『別丁 石川真澄 という人がいた』読了(2/3)

2008年11月13日 07時55分49秒 | Weblog
【筑紫哲也編集、『別丁 石川真澄 という人がいた』
石川さんは九工大機械工学科出身で、選挙結果や世論調査の分析のち密さや、守旧派といわれながらも小選挙区制の危険さや欠陥の指摘に孤軍奮闘した姿、そこに理系新聞記者の血が見て取れる。「政治を科学した」(p.36)。「絶対得票率」の提案も。「・・・小選挙区制。結果は死票累々、投票率急降下。そして「絶対投票率三〇%足らずの政党が、わが物顔でイラク派兵から憲法改定へ踏み込もうとしている」(p.44)。「日本国憲法が民衆にとってどんなに素晴らしいものだったか・・・書いてある」(p.61)。『JANJAN』の選挙データベースの構築の際に、竹内さんから石川さんは相談を受けていたそう (p.46)。朝日新聞の死亡記事にも、「政治報道に数量的分析を導入。九〇年代の政治改革論議では『死票を大量に生む小選挙区制では民意を国会に反映できない』などと、小選挙区制導入に反対の論陣を張った」 (p.65131)

「渡邉恒雄氏 (2) は理想的な政記者像か」という対談で、「「政記者よりも真の政記者に」の志を貫いた石川さんには、だから呵責なし批判を期待したのだが、そう単純ではなかった。・・・「ただの政工作者でなく、理屈にも強いところが、しゃくなんだね」という。逆に渡邉氏からは「お前みたいな、数字をいじくれるやつが俺のところにもほしいんだよ」と言われたこともあった。・・・さすが「ただもの」でない者同士か・・・」(p.72)
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●『別丁 石川真澄 という人がいた』読了(3/3)

2008年11月13日 07時53分45秒 | Weblog
【筑紫哲也編集、『別丁 石川真澄 という人がいた』】
黒川さんは「・・・一九五七年、朝日新聞社に一緒に入った。この年・・・足切りの常識テストがなく、例年より変わり種が多いといううわさだった。・・・二年後・・・も常識テストなしだったが、本多勝一とか筑紫哲也とか変わり過ぎが入ってきたので、以後常識テストなしはやめになったとか聞いた」(p.36)

ある時、誘い出し役の辻元さんとともに、石川さんは、筑紫さんに都知事選に出るように熱心に口説いたそう。筑紫さんがそれを受けていたら、あんな酷い状態にはならなかったかも。

本多さんによる最後の電話インタビューでは、「やはり一番問題なのは「表現の自由」」とし、『週刊文春』によるある政治家の娘の離婚問題掲載記事販売差し止めの件について。「あのとき僕はつくづく思ったんだけど、みんな表現の自由を問題にし、応援したくもないクソッタレ文春を弁護しなけりゃならないことにウンザリしながらやってました。それ自体はまあ正しいとしても、その副作用として「表現の自由すなわちメディアの自由」と強調されすぎた。・・・自分の気持ちを個人として素直に表現できる自由、そのことの大事さ。しかしあの事件は、メディアの自由、自分たちの商売道具を大事にするために言ってるんだと、一般の人たちに思われたでしょ。・・・「メディアの自由」と思われたらメディア側の負け(p.66)。本多さんが石川さんに最後にお会いしたのは疋田桂一郎さん (3) を偲ぶ会だったそう。「とりわけ日本に、惜しい政治記者を失った。・・・石川氏の連載「現代史ウォッチング」(『朝日新聞』一九九三年秋) を再読してみると、現在の日本をことごとく予見している」(p.67)
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