東京新聞のコラム【筆洗】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016071202000135.html)と、
『LITERA 本と雑誌の知を再発見』(http://lite-ra.com/)の新田樹氏による記事【永六輔が自民の改憲草案を「ちゃんちゃらおかしい」と痛烈批判していた!“総理が改憲と言い出すのは憲法違反”とも】(http://lite-ra.com/2016/07/post-2412.html)。
『●『ぢぢ放談』読了』
『●言葉が見つかりません・・・』
『●永さんとラジオ』
『●「スクールカースト」『週刊金曜日』
(2013年5月24日、944号)についてのつぶやき』
永六輔さん【無名人語録398】、「憲法を改正して、
戦争が出来るように従っている連中は、戦争に行かない連中だよ。
行くのは若者だよ。命を国に捧げるんじゃないよ、
生命を国に奪われるんだよ」。「戦争絶滅受合法案」
(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/8c42dbd1fe90afdf198502fb0d873bd3)
永さん「強い日本から美しい日本へ。総理大臣が急に日本を美しい
と言い出したね。そういえば、死ぬことも美化する国だったよな」。
矢崎泰久さん【発言2013】、「要するに日本はもう終わっている。
…自由を剥奪された国民は奴隷である」。必読
《「上を向いて歩こう」には安保闘争の挫折の悲しみを込めた▼五四年ごろか、戦力を持たぬはずの日本に戦力があると皮肉るコントをNHKラジオの娯楽番組に書いている。「いないいないばあっ!自衛隊」》。
《戦争そして憲法について繰り返し語ってきたことでも知られる》
永六輔さんがお亡くなりになりました。『無名人語録』や『「永六輔[放送タレント]×矢崎泰久[元『話の特集』編集長]のぢぢ放談』など、とても好きでしたし、ラジオを愛しておられた点も、尊敬していました。とても残念です。ご冥福をお祈りします。
《戦争に行かない連中》が好き勝手に壊憲しています。それを座視して、アベノサギに騙されるニッポン。立憲主義が否定される恐ろしい時代に。永さん曰く、《「9条を守る」ことは「99条を守ることだ」》。後悔しても、「あとの祭り」…。
2016年7月参院選を目前に、永さんが亡くなってしまいました。
『●失われる「メディアの作法、矜持」…
「権力を監視する機能が失われ」、しかも、アベ様の「思う壺」』
『●青木理さん: ジャーナリストの矜持
「権力や権威の監視」「強者にこそ徹底した監視の目を」』
『●2016年7月参院選、今回も「眠り猫」だった皆さん…』
『●2016年7月参院選、「あとの祭り」…
教育破壊の効果とアベノサギという「壊憲=争点」隠し』
『●2016年7月参院選、
「あとの祭」の要因の大きな一つは片棒担ぎのマスコミにあり』
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016071202000135.html】
【コラム】
筆洗
2016年7月12日
「夢であいましょう」「黒い花びら」「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」。曲名を並べ、不思議だなあと首をひねる。なぜか曲名だけで次の歌詞が自然と出てくる▼「黒い花びら」の曲名を見れば「静かに散った」と、「見上げてごらん夜の星を」と見れば「小さな星の」と浮かぶ。どんな仕掛けか。もう一度、曲名を見る。曲の歌い出しがそのまま曲名になっていることに気がつく▼直球にして明快な方法である。覚えやすさの点で優しさも感じる。書いたのはそういう方だったに違いない。いずれも作詞は亡くなった永六輔さん。往年の「六、八(作曲家の中村八大さん)、九(歌手の坂本九さん)」の間を埋める、ちゃめっ気か七日に逝く。八十三歳▼放送作家に作詞家、タレント、文筆家。マルチな活躍の一方、絶えず権力を見張る側にいた方である。安保反対にわく一九六〇年、「デモと番組とどっちが大切なんだ」と聞かれ「デモですね」と台本を書いていた番組を降板。「上を向いて歩こう」には安保闘争の挫折の悲しみを込めた▼五四年ごろか、戦力を持たぬはずの日本に戦力があると皮肉るコントをNHKラジオの娯楽番組に書いている。「いないいないばあっ!自衛隊」▼選挙に勝つため不利な争点を隠す「いないいないばあっ!改憲」の時代に直球、明快のガンコ者との別れが何とも心もとない。
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【http://lite-ra.com/2016/07/post-2412.html】
永六輔が自民の改憲草案を「ちゃんちゃらおかしい」と痛烈批判していた!“総理が改憲と言い出すのは憲法違反”とも
憲法 新田樹 自民党 2016.07.12
(TBSラジオ「六輔七転八倒九十分」番組サイトより)
永六輔氏が、先週の7月7日に逝去していたことが、きのう明らかになった。永といえば「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「こんにちは赤ちゃん」の作詞など、戦後を代表するタレント、作詞家だが、戦争そして憲法について繰り返し語ってきたことでも知られる。
周知の通り、先日行われた参院選の結果、改憲勢力が3分の2議席を獲得した。それを受けて安倍首相は改憲について「今回の選挙の争点は改憲ではない」「今後、与野党で議論しながら慎重に進めていく」と語っているが、昨年の安保法制の時の国会運営を思い出してもわかる通り、議論すらまともに行わないまま数の暴力で強行に進めていくとみて間違いないだろう。
権力者によって憲法が蹂躙されようとしているいまだからこそ、あらためて永氏の憲法そして反戦への思いをあらためて振り返りたい。
「本来、一般市民は憲法なんて気にしなくてもいい、それが平和な世の中
というものですよ。市民が『改憲ハンタ〜イ』なんてデモするのは、
けっして平和な状況ではない。憲法はあくまで国の舵取りをする政治家や役人、
つまり為政者を縛るための法律なんであって、国民は憲法に縁がなくても、
幸せならそれでいいんですよ」(「現代」06年6月号/講談社)
市民が「改憲反対」なんてデモをしなくてはいけないような状況になること自体が、すでに異常事態である、と。まさに現在の状況を予見するような重要な指摘を、永は10年も前に語っていたのである。
憲法は為政者を縛るためのもの。昨年夏の安保法強行採決や今回の騙し討ち選挙によって破壊された立憲主義について、永はさらにこんな指摘もしている。それは、「9条を守る」ことは「99条を守ることだ」というものだ。
「憲法議論でいうとね。第9条ばかりに目がいきがちだけど、
条文の最後のほうの第99条には、憲法をまとめるように、
『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』とあるんですよ。
この大事な99条にまで議論が及ばない」(「現代」05年8月号)
しかし、現在自民党が出している改憲草案では、この条文に「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という文章が加えられ、本来為政者を縛るためにあるはずの憲法が国民を縛るものに変わっている。これは「憲法」の根幹を揺るがすような変化なのだが、選挙前にこの事実を伝えるマスコミはほとんどなかった。
「(99条は)憲法を変えてはいけないという条文です。天皇陛下といえども
変えられない。それなのに国会議員が変えると言い出すのはおかしいでしょう」
「国民に義務を課すなんてちゃんちゃらおかしいですよ。憲法は国民を守る
ためのルール。それなのに99条を変えると言い出すなんて、政治家が
憲法を勉強してこなかった証しです」(毎日新聞13年5月23日付夕刊)
自民党の改憲草案を「ちゃんちゃらおかしい」と批判。そもそも総理大臣や国会議員が憲法を変えると言い出すこと自体、憲法違反だとまで語っているのだ。
ただ、永氏は憲法を改正すること自体に反対とは言っていない。しかし、それは、日本を確実に戦争ができる国に変え、国民を縛る監視国家にしようとする自民党の考える改正とはまったく違う発想のものである。
「ぼくが前から言っているのは、9条だけを日本国憲法にすべきだということ。
ほかは全部、他の法律に入れちゃえばいい」(『この国が好き』所収の鼎談より
/文・鎌田實、絵・木内達朗、マガジンハウス)
永氏の考える日本国憲法は、たった一行だけ。「二度と飢えた子供の顔は見たくない」。これだけである。
「僕は憲法はこれでいいと思うんです。条文を書き連ねるんじゃなくて、
この言葉の中に全部盛り込まれていると思う。戦争の問題、
貧困の問題、教育・福祉の問題。僕は戦争が終わって、最初に選挙する時、
興奮したし感動もしました。その感情がいまは無くなってしまった。
だからもう一度元に戻して、『二度と飢えた子供の顔は見たくない』という、
たった一行、世界でいちばん短い憲法にしたらどうかと思うんです」
(「創」13年9・10月号/創出版)
永氏が「二度と飢えた子供の顔は見たくない」という一行を生み出した理由。それはもちろん、1933年生まれの彼自身が戦争を体験した世代だからだ。
永氏はこれまで、事あるごとに自分の戦争体験を語ってきた。それは、「中年御三家」の盟友であった小沢昭一や野坂昭如と変わらないし、他の戦争を体験した人々とも同様である。ただ、その戦争体験の「伝え方」に関し、永氏には反省があるようだ。
戦争を体験した世代の人々が先の戦争を語る際、強調されるのは当然のことながら家族や友人の死など、悲惨な出来事ばかりである。ただ、幸運にも戦争中そのような悲しい憂き目にはあわなかった人もいるし、また、終戦時にはまだまだ子どもで戦争の実態がいまいち分かっていなかったという世代もいる。
終戦時、国民学校の6年生だった永氏は、戦争体験について聞かれた際、「僕は戦争が面白かった」と答えている。東京大空襲の時も疎開先の長野から真っ赤に見えた東京の空を見て、「まるで夕焼けみたいに綺麗だった」とも感想を述べた。戦争体験としてはあまりに異質な感想だが、それが、終戦時12歳だった子どもの“実体験からの感想”だったのだ。
「子どもからすれば、自分の家さえ燃えなければ、火事というのは面白い。
空襲もそんなものにすぎなかった。
親子関係だって、別れていくのが当たり前。
毎日、近所のお兄さんが出征していき、かわりに遺骨が帰ってくる。
『だれそれが亡くなった、こんどは誰ん家が焼けた』、とそれが日常でした。
僕がもう少し大人だったのなら、戦争のすさまじさが分かったのだと思います。
三つ年上の野坂昭如さんは、軍需工場で働いているから、戦火を
逃げ回った経験をお持ちです。小沢昭一さんは、飛行機に乗って
突っ込んでいく準備をしているわけです。
でも僕は子供だったからそんな経験もない。だから戦争は面白かった。
(略)
大人になってから気が付きました。
『戦争が面白い』
そんな風に思っている子供がいたなんて、そんな子供時代をすごしていた
なんて、なんと怖いことだろうと」(「小説宝石」05年8月号/光文社)
戦争がどれだけたくさんの悲しみを生み、そして自分の命すら脅かしてしまうものなのかを理解できぬまま軍国教育を受け続けると、このような感想を抱く子どもが生まれてしまう。永氏は実体験からその恐ろしさを伝えようとしているのである。
戦後の平和な時代になり、このような率直な感想を語る人は少ないが、これもまた、戦争の恐ろしさを十二分に伝える逸話である。だからこそ、戦争を体験した世代は、自分たちが本当に感じた「戦争」を後の世代に語り継いでいかなくてはならなかった。永氏はそのように感じていたようだ。
「体験といっても、ぼくらのような学童疎開した世代と、実際に
戦争に行った人では『戦争』の意味が違うし、同じ昭和ひとケタでも、
小沢昭一さんと野坂昭如さんと、そしてぼくの『戦中』『戦後』はまったく違う。
(略)疎開世代でいえば、小沢さんも野坂さんも、ぼくもそれぞれ違う。
それを「昭和ひとケタ」でくくってしまうところが釈然としないだけで。
戦争体験といっても、ほんとに撃ったり、撃たれたり、戦地での経験を
持っている人と、戦地へ行く手前の少年兵だった小沢昭一さんたちと、
動員されて軍需工場で働いていた野坂昭如さんと、ぼくらみたいに、
ただ疎開したというのが一緒になっているから、話はズレます」
(前出「現代」05年8月号)
小沢昭一氏は2012年に亡くなり、野坂昭如氏も昨年12月に亡くなってしまった。「中年御三家」最後の一人だった永六輔氏も、もうこの世にはいない。戦争体験を語り継いでくれる人も年々減り続け、現在の日本は「戦争の本当の恐ろしさ」を理解している世代が次々と鬼籍に入りつつある。
日本国内から「戦争」への忌避感が急速に失われつつある。そして、70年ものあいだ、日本を戦争から守ってきた憲法が破壊されようとしている。いまいちど、永六輔氏の残してくれた言葉を肝に銘じておきたい。
(新田樹)
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