人は不安があり、確信が持てずにいる時は、信じられないことまで、信じてしまう危機にさらされている、ということは、個人の生活を考える時にも、また、政治の在り方を考える上でも、大事な視点です。
私どもがこの事実を意識しないでいたために、私どもの関心(つまり、好奇心と確認の影響)が、性的象徴についてこまごまと言葉にすることによって、選択的に呼び起こされた時に、私どもが「性的好きもの」と呼ばれてショックを受けました。私どもが悲しかったのは、私どもがクライアントである「受苦的存在」の中に自分自身が描かれていることを見る時です。このクライアントである「受苦的存在」は、社会生活の中では、自我の防衛の罠に対して警告を発しているようなフリをしながら、お互いの気持ちを暴露しあうことを強迫的に仕出かす態度を広めました。さらには、私どもがうろたえるのは、私どもの心理教育の目的が、運命論を広めているように誤解された時です。その運命論によれば、人間は両親の数々の過ちの掛け算に過ぎず、また、赤ちゃんの頃のいろんな私が積み重なったものにしか過ぎないのです。私どもが不承不承認めなくてはならないのは、私どもが科学的決定論によって、少数の人のためセラピーを何とか生み出そうとしていた時でさえ、多数の中に倫理的病生み出すように導かれていた、ということです。
精神分析は、人々が不安に駆られているときには、信じられないことまで信じてしまう、と言う厳然とした事実を見失っていたために、様々な誤解を受けることとなりました。今回エリクソンが記しているのは、誤解を受けた、その具体例です。
しかし、ここでエリクソンが言う「倫理的病」とは、いったい何のことでしょうか?