最も厄介な存在が、最も身近に存在する。それは思いのほか、良くあるパターンなのですね。さらに厄介なのは、その関係が、なかなか客観的に把握するのは非常に困難なことが多い、ということです。
こういったことを考慮に入れて、マルコによる福音書第九章17節~24節に立ち返りましょう。キリストに声をかけたのは、1人の父親でした。「『主よ、私はここに息子を連れて参りました。息子には声を出さない悪霊が憑いてますから・・・』。するとキリストはその父親に答えて尋ねた。『こういう状態になったのはいつからですか?』父親は言った。『1人の子どもの…』。キリストは父親に向かって言った。『もしあなたが信頼することができれば、信頼するものは何でもできます』。その父親はすぐさま泣き出して涙ながらに言った。『主よ、私は信頼します。信頼の弱い私を助けてください』。それで二人は癒されたことが聖書の中に記されています。つまり、モノを言えない悪霊に憑かれた1人の息子が癒されたのは、父親が弱い信頼感を癒された後のことでした。マルティンが示したこの聖書箇所に対する反応の、「内的・心理的」核心の見通しは、慎重に値踏みされるべきでしょう。他でもない、ダニフル先生が用いた物差しで、聖職者と呼ぶ人を測ることとします。ただし、私どもはダニフル先生を、ルターに伝記に中では、聖職者養成校の代表として引用する時の話です。
子どもの癒しという出来事は、父親の信頼というイメージと結びついています。それは同時に、キリストがその父親に話した、話し言葉と結びついています。
ここでも、<イメージ・話し言葉・出来事>の結びつきが、物語の展開には欠かせないものとして描かれています。