ルターの発作をシェール先生は、神が準備した苦難である、と見ました。それは何でもかでも、「病気」、「障害」、「異常」と見なして、「自分たちとは違う」と安心したい現代人にありがちな見方とは、正反対の見方と言えるでしょう。しかし、それではスビリチャアルな健康を保つことはできないのです。なぜなら、最深欲求は、今申し上げた「病気」などに見える形で現れることが多いからです。
最も有名で、多くの点でまさに無名な、ルターを中傷する人物は、ドミニコ修道会のハインリッヒ・ダニフルは、教皇の座の副アーカイパーでしたが、ルターの発作に対して、別の見方をしました。ダニフルにとっては、聖歌隊での発作のような出来事は、内的な要因が一つあるだけだとしました。それは、ごく最近の葛藤や真実な難儀などではなくて、人格が極端に堕落しているからなのでした。彼にとっては、ルターはあまりにも頭が変なので、真実の心理的、ないしは、スピリチュアルな苦難があるなどとは到底信じられるものではないのです。ルターを通して語る存在は「悪魔」に決まっています。ダニフルが一番大事にした価値付けの根拠は、単なる病的発作でもなければ、後になって、ルターが宗教改革に至ることとなる天啓でもなく、まさに、何物も神の介入とは無関係、ということでしたし、そうでなければなりませんでした。嵐の日のことに触れたところで、「誰が、他ではない、ルターのために」、「聖霊を通してなされた、息吹が吹き込まれるということが、本当に天から来たことなのか、それは、意識的、ないしは、無意識的な自己欺瞞の働きではなかったのか」と問うています。ルター主義は、ダニフルが恐れていることですが(、そして、立証したいと願っていることですが)、非常に危なっかしい人の絵空事を、教義の高みに持ち上げようとしている、ということです。
カトリックのダニフル先生の見方は、プロテスタントの神学者シェール先生の見方と正反対ですね。さてさて、今後については、乞うご期待。