ルターは、ライターによれば、神経症の時代を経て、宗教改革を実践するに至る人となれたこととなります。ですから、ルターの神経症も、「創造の病」ということができるでしょう。
私どもは、この精神科医が肯定した免罪符を最大限活用しようと思います。というのも、私どもがライターの書いたものを引用する際には、ライターのことを、ルターの伝記記者のなかで「医学・生物学派」の代表、と呼ぼうと思うからです。このグループの伝記記者たちは、ルターが個人的に、あるいは、神学的に「やりすぎ」になるのは、1つの病気のせいだ、と描きます。この病気のせいで、その病気がたとえ、脳の病であっても、神経症であっても、腎臓病であっても、ルターは生物学的に劣等であるか、あるいは、病人だ、とされました。聖歌隊での出来事については、ライターは、不思議な間違いを犯します。ルターは、自分でも口にしていますが、ずっと長い間、自覚的ではありませんでした。というのも、ルターが「極端に意図的に・・・」大声で「それは私だ Ich bin's」と叫んだからでした。つまり、ルターには、福音に憑りつかれてしまった、という自覚はなかったのです。このように肯定的に感嘆符をつければ、私どもが聖歌隊での出来事のせいにしている肯定的な意味を台無しにしてしまうでしょう。しかしながら、ライターも、同じ本の300ページ前で、伝統的なやり方で、マルティンが「それは私じゃない」と大声で叫んだ話に触れています。
ライターは、聖歌隊での発作は、いわば不安発作であり、病気の印と考えたのでした。ですから、そんな病気持ちのルターは、劣等であるか、病人なのですね。ライターのような「医学・生物学」的に物事を考える人は、「病気」=「弱さ」と考える人ですから、この「病気」が創造性の源になっているとは考えないのです。すなわち、「病気」=「弱さ」と見なす人は、「創造の病」と言う見立てに消極的になります。