精神分析が受けうる誤解のかずかずについて、具体的にエリクソンは教えてくれました。それは、エリクソンが、直接、間接に、体験したことだからこそ、具体的に示すことが出来たのだろう、と私は思います。
青年期に防衛的な退行の仕組みが実際に存在し、しかも、実にいろいろあることを体系的に示したのは、アンナ・フロイトの著作『自我と防衛機制』においてでした。この本は、心の中にある防衛機制を定義していますが、それは何も、青年期の発達を分析するのを排除する、という訳ではありません。「青年達が喜ぶ抽象的で知的な議論や思索は、何も現実がもたらす課題を解決しようとする純粋な試みでは必ずしもありません。青年たちの精神活動は、むしろ、本能的な過程と、実際に青年が感じた本能の過程を抽象的思考に翻訳したものに対する、強い警告を示しているのですね。」とアンナ・フロイトが言う時、彼女が示しているのは、青年期の熟慮に関する話の防衛的な半分なのです。残りの半分は、青年期の熟慮には適応するための働きがあるのであって、その働きは、考え方を変えた歴史の中に必ずありました。この本の中で、私どもがこの定式化に付け加えたいのは、思春期と大人の間の時期に、伝統的な材料が心の中にある新しい材料と混じり合って、潜在的に新しい何かをいかに創りだすかを、私どもに教えてくれる、歴史的な新旧の共存です。それは、新しい人であり、この新しい人と同時に新しい世代であり、さらには、新しい世代と同時に新しい時代です。人々を導く価値が青年期以降に源があるがゆえに、人々や世代世代や時代時代に何が起きているのかという問いは、結論のところで議論することしましょう。この問いが、この研究の枠組みを越えているのですけれどもね。この研究が捧げられるべきは、私どもが臨床家として学んできたことが心の生態学の一部にならなければならない、という仕事に対してであって、私どもの知識を価値創造のお役に立てる、十分な責任を果たすことができるようになるのは、その後です。
エリクソンが実に情熱的であると同時に、冷めた目の持ち主であることがハッキリ分かる筆遣いですね。全く頭が下がります。
青年期は新しい何かが生まれる時代です。それは、最初は混沌としているので、退行しているように、引きこもっているみたいに、まるで怠けているように、“見える”ことでしょう。エリクソンはそんな青年に何人出会ったことでしょうか?そんな青年との関わりの中で、「混沌」や「対抗」や「引きこもり」や「怠け」に見えたことが、いかに「新しさ」に満ちていたかを体験したはずです。それは時代を切り開く力のあるものだったことでしょう。しかし、それに取り掛かりたい、という気持ちを遠慮して、まず自分が関わる仕事をしようとしているのです。エリクソンは、青年期のこの二律背反に満ちた創造性が、人間の心の生態、ありようにいかに結びついているのか? ということを明らかにする仕事に取り掛かろうとしているのです。