様々な意見がある、ルターの聖歌隊での出来事について、エリクソンは精神分析の、どのような切り口で、一致した見立てをしてくれるのか? それが実に愉しみですね。
(まずは、)大学教授を取り上げましょう。彼が資料を刻々と変え、しかも、横柄にも自分自身版の資料にしてしまう時、不思議な好戦性(フロイトの経験から判断すれば、今世紀最初のドイツでの科学研究の場では、まさに典型的です)によって、この大学教授は他の専門家たちに対して挑戦状をたたきつけています。それはまるで、決闘の挑戦状です。彼は常々専門化のせいにしたのは、高校生の無知についてだけではなく、若者たちの動機についてです。これによっては、私どもは煩わしいとは感じません。このような決闘ならば、インクをばらまくのが落ちで、また、脚注が膨らむだけです。しかし、ルターの新しいイメージは、このように直立し、守られているものでしたが、決定的瞬間には、方法論的には、幾分軍隊式を感じます。他方、そのイメージは、心理学的一貫性が全くないままです。この大学教授の第一巻の結論では、勇ましいイメージだけが、修道院の門がたった今絶たれた、悲哀の青年マーティンのための希望を表明するのに十分なのです。彼は次のように書いています。「新人ルターを用いて、戦士がこしらえられました。敵は、力でも、悪知恵をもってしても、そのイメージのルターに触れることはできませんし、そのイメージのルターの魂は、その闘い参加した後で、大天使ミカエルによって、最後の審判の座に引き連れられるでしょう」。
大学教授は、「闘うルター」のイメージを創り出しました。この戦いでは、ルターは無敵という感じですね。