桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

我孫子の平將門

2009年08月02日 10時31分46秒 | 歴史

 八朔、土曜日の朝は涼しい曇り空でした。
 歩くのには絶好の陽気だったので、平將門の伝承を訪ねて我孫子に行くことにしました。
 目的地が駅を挟んで南と北に別れているので、普段の散策なら二度に分けるところですが、我孫子市内といっても、我孫子で成田線に乗り換えて湖北という駅まで行くので、気軽にまた行こうといえるところではありません。一日で二日分を歩く覚悟で出かけました。

 湖北は初めて降りる駅です。
 プリントアウトして持ってきた地図を頼りに歩き始めましたが、どうも現実と地図とでは道の様子が違うようです。地図には載っていない昔からの農道があったり、逆のこともあるのでしょう。のっけから方向を見失って、なるようになれ、と闇雲に歩き始めました。
 山歩きはしたことがありませんし、もしするとなれば、慎重に行動すると思いますが、こういうせっかちな性格が遭難を招くのかもしれません。



 今回の散策の第一の目的地・將門神社です。
 駅を降りてから三十分以上さまよったあとに見つけました。その苦労に比して、あまりのうら寂しさに少しガッカリしてしまったことは否めません。
 鳥居の真下まで行かないと神額の文字も読めません。

 天慶三年(940年)、平將門が戦没したとき、遺臣がその霊を携えて手賀沼を渡り、丘に上って日の出を拝したのがこの場所、という言い伝えがあるそうです。

 明らかに私道と思われる畑道をさまよっていたとき、周りにいくつも見える林の中で、一つだけ下枝が取り払われて、見通しのよさそうな林があるのを怪しんで近づいてみたら、この神社でした。
 前面からアプローチすると、入口を示す標識がありましたが、私は後ろから近づくことになったので、ただ一つの標識すらありませんでした。我ながらよくぞ行き着けたと思います。



 將門神社を出たところで私を出迎えてくれた猫殿。
 ニャーニャーと呼びかけてくれたあと、親愛の情を示す仕種-尻尾を真っ直ぐに立て、私の足許に寄ってきて脇腹をこすりつける-をして去って行きました。
 思うに、將門神社の宮司だったのではないか。
 訪う人も稀そうな神社を、よそ者の私が訪れたのを悦んで、親愛の情を示してくれたのでしょうか。社殿も社務所もないので、どこかの家に仮住まいをしているのだと思われます。



 いまは住宅が建っているので見通しが効きませんが、將門神社は確かに丘の上にありました。遙か昔なら日の出が拝めたかもしれません。
 緩い坂を下り、さらに少し急な坂を下ったところにある將門の井戸。右手の樹の根元に見える窪みがそれです。
 承平二年(932年)、將門が開いて軍用に供した、との伝承があります。



 真上に立って覗いてみましたが、いまは単なる水溜まりと化しています。

 再び將門神社に戻って脇道を通り抜け、県立湖北高校の塀に沿って国道356号線を目指しました。



 湖北高校内にある相馬郡衙正倉跡。
 住居跡は縄文時代と推定されるものが8、弥生時代2、古墳時代188が発掘されています。建物跡は奈良・平安時代の54棟が遺っていて、相馬郡の役所跡だろうと考えられています。夏休み中で校門が閉じられており、中に入ることはできませんでした。

 観音寺・通称日秀(ひびり)観音にある首曲(くびまがり)地蔵です。
 承平・天慶の乱のとき、朝廷は高雄山神護寺の不動明王像とともに、寛朝という僧侶を坂東に遣わして、將門調伏を祈願させました。その不動明王が祀られているのが成田山新勝寺です。
 將門ゆかりの地の人々はいまでも成田山には参詣しないといわれていますが、この地蔵様も成田(左方向)には顔を背けています。



 国道356号線(旧成田みち)で偶然見つけた一里塚です。通称中峠(なかびょう)の一里塚。
 中峠と書いて「なかびょう」と読むのは面白い。日秀という土地の名も、電柱の地名表示をところどころで見かけて、日蓮宗の坊さんのような名前だと思いながら歩いていましたが、「ひびり」と読ませるとは思いも寄りませんでした。



 国道356号線沿いにある龍泉寺。
 山門と本堂は上野寛永寺の塔頭の一つ・凌雲院の建築物を譲り受けたということです。三葉葵の釘隠がついていましたが、まだカメラの操作が飲み込めていない(ストロボを強制発光させることができなかった)ので、カメラのモニタではなんとか認識できるものの、パソコンに取り込み、さらにこのブログに取り込むと、ただ黒いだけ。よって釘隠の画像は割愛。

 凌雲院は前回のブログ(梨と松平定信)で触れた一橋徳川家の菩提寺です。ただ、定信といろいろ因縁のあった二代目治済(はるさだ)は将軍の父となったので、同じ寛永寺内でも一橋家の墓所とは別に葬られることになったのです。



 龍泉寺から十五分で曹洞宗法岩院。天文十一年(1542年)、芝原城主(中峠城とも)だった河村出羽守勝融が創建。



 大施食会が開かれていました。
 施食会とはアーナンダ尊者にまつわる施餓鬼のこと。曹洞宗では施餓鬼とはいわず、施食会と独自の呼び方をしています。一般的にはお盆の時期ですが、ここでは昨日一日に開かれていました。
 地区ごとに分けられて並べられた卒塔婆の中から自家のものを見つけて、少し離れた国道356号線沿いにある墓所まで善男善女が携えて行きます。私が持っていたのは例によってわかりにくい地図だったので、この善男善女たちと行き会うことがなければ、法岩院は見つけられなかったかもしれません。



 法岩院の裏手から徒歩数分、古利根沼に着きました。
 かつての利根川の本流の跡で、いまでも千葉・茨城の県境です。対岸に見える丘は茨城県取手市です。
 利根川はこの地域で「ひ」の字を描くように、急激に湾曲していたので、河川の氾濫が絶えませんでした。そこで、明治四十四年から始まった河川改修によって流路が直線化され、遺されたのがこの沼というわけです。



 古利根公園自然観察の森。この中に芝原(中峠)城址があります。ちょうど陽が翳ったこともあり、森の中は自然のエアコンが効いて、鳥肌が立つほどの涼しさでした。
 早くも蜩(ヒグラシ)の声を聴きました。

↓このブログの参考マップです。
http://chizuz.com/edit/create.php?id=55198

コメント
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