土曜日に行った我孫子・湖北の龍泉寺。
遠過ぎて本堂は見えませんが、ここの山門と本堂が一橋徳川家の菩提寺だった上野・凌雲院の遺構だと知って、ちょっとした因縁に愕いています。
湖北を訪ねたのは將門の伝承を追うことが目的で、その後に歩いたところは私にとっては付録に過ぎず、通り道にこのお寺がなければ、寄ることもなかったからです。
ブログで松平定信に触れたついでに触れることになった一橋治済(はるさだ)は、たまさか将軍の父となったために、死後葬られたのは上野の寛永寺。二代目当主でありながら、一橋家の歴代当主の中でただ一人、菩提寺の凌雲院には葬られなかった、というのも何か因縁めいて感じられました。
青年期の松平定信が激しく反発したのは田沼意次です。
直情怪行-青年にはありがちなことですが、どうも陰で糸を引いていたのは定信の従兄弟で、七歳年上の一橋治済であったようです。多感な青年期は身近に政治的人間がいると、その影響を受けやすい。
こうして、若造とはいえ、吉宗将軍の孫二人が自分に反感を持っていると知れば、普通ならちょっとはギョッとなるところですが、海千山千の田沼意次は歯牙にもかけません。現将軍から絶大な信頼を寄せられているのをいいことに、逆にジワリジワリと圧迫を加えます。
圧迫の数々はとてもここには書き切れませんが、脅威を感じた治済はある日、クルリと転向してしまいます。
現代社会でいえば、実力社長vs創業者の孫という構図です。孫には創業者の血筋というブランドがあり、株主でもあるけれども、自力で社長を罷免できるほどの株は持っていない若者と意次との暗闘というところです。
若者は多数派工作に出て、実力社長を罷免しようと株を集めようとするが、思いどおりには集められない。ボヤボヤしていると、実力社長に蹴飛ばされて、株もブランドも失ってしまいかねない。
ある日、そう気づいて、鮮やかに身を翻すのです。
気の毒なのは治済と肩を組んで「エイエイオーッ」とやっていた、やはりブランド品の定信です。二階に上がったのに梯子を外されただけでなく、追い討ちがかけられました。
田安家から白河藩に養子に出されることになったのです。
次期藩主含みではありますが、石高はわずか十一万石。松平の姓は許されているものの、御家門でもなく、親藩でもなく、譜代大名に過ぎません。
ものの本には田沼意次の懲罰人事と書かれていますが、私は治済の工作があったのではないかと睨んでいます。
つまり、背景にはこんなことがあります。
安永二年(1773年)、一橋家のお部屋様となった岩本富子は、玉のような男の子を生みます。のちに十一代将軍・家斉となる豊千代で、吉宗の曾孫に当たります。この富子に関する面妖な話がありますが、それは次の機会に回します。
その豊千代が生まれたとき、この子が将来公方の座に就くだろうなどと考えた人は誰もいなかったはずです。私の想像では父親である治済一人を除いて……。
なぜならば、十代将軍・家治はまだ三十七歳という若さ。病弱だった父の九代将軍・家重とは違って、健康でもあり、聡明でもありました。
その家治に万が一、コトがあったとしても、次期将軍候補としては、第一位に家治の嫡男・家基がいました。豊千代が誕生したときには十二歳。大禍なくすくすくと育っていて、この家基が次の将軍の座に就くのは明白でした。
この若君になんらかの事故があったとしても、腹違いの弟・貞二郎君がいました。
家基にも事故があり、貞二郎君にも事故があった場合、初めて御三卿にお鉢が回ってくることになりますが、御三卿の筆頭は一橋家ではなく田安家です。ここには七男の定信がいました。吉宗の孫です。
血の濃さ、という将軍位継承の重要な要素の一つからいえば、曾孫の豊千代より孫の定信のほうが断然優先です。が、それも家治、家基、貞二郎と三人に不測の事態がつづけて起きたときだけのこと。普通はあり得ないことです。
ところが、ところが……です。
貞二郎は夭逝。
定信も豊千代も、双六が一つ進みました。夭逝する子の多い時代ですから、貞二郎の死に疑問あり! と、誰かに疑いをかけるのは、まだやめておきましょう。
しかし、豊千代七歳の安永八年(1779年)、朝までピンシャンしていた家基が鷹狩りのあと、品川の東海寺で休息。そこで突然死んでしまうのです。
当時も後世も、田沼意次による毒殺説が囁かれました。家基が将軍になれば自分の身が危うくなる。それを未然に防ぐため、というのです。
聡明だった家基は政治への関心も高く、意次の専横を苦々しく思っていた、といわれています。
意次にとって、そんな家基が将軍を継ぐのは面白くない。
動機は充分です。
が、家基を亡き者にしても、犬猿の仲の定信将軍が近づくだけです。
将軍・家治はまだ四十三歳。意次に寄せる信頼は依然全幅といってよく、まったく翳りがありません。家治が病床にあるというのならわかりますが、そんな様子はまったくない。そういう時期にそんな危ない橋を渡るものかどうか。
家基の死を定信がどのように受け止めたかわかりませんが、定信も豊千代も揃って双六を二つ進めました。
そして定信の双六は終わり、豊千代だけが進むという事態が家基の死の四年後にやってきます。定信の養子話です。
先に書いたように、意次が自分に刃向かった若造を懲らしめた、という説があって、私はそれもあるかもしれないが、もう一枚噛んでいる、というより意次以上に働いた人物がいるのを見るのです。
-というところで、おぢさんがドンドンと太鼓を叩いて、今日の紙芝居は終わり。
また明日、お母ちゃんから十円玉をもらって、落とさないようにしっかり握ってくるんだヨォ~ン。ドンドン。
幽雨に濡れましたが、今朝は涼しい朝でした。
毎朝、こんな道を通って通勤しています。左手は崖で、大野城があった跡。右手は民家がつづいていますが、街路灯も少なく、夜はほとんど真っ暗になります。
崖下には「チカンに注意」の黄色に赤字の看板。学習塾帰りの子女を狙う痴漢、高齢女性専門のひったくりが出る、というのもむべなる哉、です。
今朝撮影した梨の実です。数日では目に見えるような変化もありません。
そろそろ立秋です。
まだ夏は真っ盛りで、天候不順の今年はこれからもっともっと暑くなるだろうと思われますが、自然は秋の訪れを告げています。
そして、考えたところで何もならないのですが、毎年八月初旬を迎えると、私は生けるものの生死を強く感じて、ブルーな気持ちになります。
弱った玉虫を見たときもそうでしたが、この時期、マンションの雨水溝などで、ひっくり返って腹を見せている蝉(セミ)の死骸を見るからです。
死ぬ前の蝉は気がふれたような飛び方をします。ベランダの鉄柵にぶつかったり、庇にぶつかって叩き落とされたり……樹液など吸えないのに、金属製の樋に止まって啼いてみたり……。
数日前、勤め先の近くで木槿(ムクゲ)の枝に止まっている油蝉を見つけました。金属製の樋とは違って、樹液はあるかもしれないが、木槿に止まる蝉など聞いたことがない。おそらく静かに死を迎えようとしていたのでしょう。
今日、勤めを終えて帰るとき、途中にある梨の即売所のシャッターが上がっているのを見ました。まだ梨は置いてありませんでしたが、いよいよ開店のようです。