桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

梨と松平定信(3)

2009年08月12日 12時37分36秒 | 歴史

 台風9号は関東地方にはほとんど影響ももたらさずに過ぎ去りました。



 昨日の強い風で落とされたのでしょう。通勤途上のそこここに栗のイガがありました。
 写真を撮っただけで拾いませんでしたが、この時期の栗なら食べることができます。実を取り出して皮を剥き、ナイフの背などで渋皮をこそぎ落として生のまま食べるのです。
 都会(人口が多いという意味で)生活しか知らぬ私がそんなことを知っているのも、遙か四十年も前、飛騨の山奥生活を体験したからです。

 さて、紙芝居のおぢさんが今日もやってきました。そして、子どもにはあまり面白いとも思えぬ松平定信のお話のつづきをするのだそうです。



 この人……定信の政敵・田沼意次です。その天下は将軍家治の死とともに瓦解します。
 家治が死んだのは天明六年(1786年)八月二十五日。
 その二日後の八月二十七日、意次は老中を罷免されてしまいます。
 二か月後の閏十月五日には家治時代の加増分二万石を没収され、大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しが命じられました。
 翌天明七年十月二日には、さらに石高三万七千石を召し上げ。蟄居の処分が下されました。

 天明六年の処分のときには、松平定信はまだ幕閣に列していないので、意次の処分にどれほどの力を及ぼしたかわかりません。しかし、翌年の処分のときには堂々たる老中、しかも首座です。

 加増分二万石を没収されて、五万七千石から三万七千石の大名に格下げになっていた意次から三万七千石を召し上げる。つまり無給の浪人に叩き落とした上、蟄居という苛烈な処分を下したのは定信です。
 五万石といえば、家臣は少なく見積もっても五百人は下らない。この人たちがどうなったのか。私にはこちらのほうも気になりますが、知るすべもありません。
 もちろん幕府は陪臣の行く末などには関知しない。

 給料がゼロになったばかりでなく、意次の許にあった財産はすべて没シュートです。城主であった駿河相良城内、全国各地に拝領していた蔵や屋敷に収蔵されていた米は三百万石以上もあったそうです。

 このころの徳川将軍家の実収は四百万石といわれています。わずか五万七千石の大名に、将軍家の年収に匹敵するほどの蓄えがあったのです。
 その他、油、酒、各地の特産品などに混じって、夥しい量の金銀財宝がありました。
 江戸屋敷の明け渡しを命じられたとき、荷物を運ぶのに、それこそ江戸じゅうの荷車を動員させて、二日もかかったというのですから、全財産がいかほどのものであったか計り知れません。それぐらい賄賂があったわけです。

 中でもびっくりするような賄賂は島津重豪からのものでした。長さ三間(5・4メートル)もある純銀! の舟です。
 長さ三間という純銀の塊だけでもすごいのに、舟の中には金銀財宝が山のように積まれていたというのです。
 これを受け取ったとき、意次もさすがに愕きましたが、賄賂を受け慣れているので、いつまでも愕いてはいない。
 長さが三間もあるような大きなものを座敷に持ち込まれても邪魔だといって、その舟専用の座敷を建て増し、そこに飾ったそうです。

 島津がなにゆえにこのように豪勢な賄賂を贈ったかというと、十一代将軍家斉の誕生にかかわりがあります。
 まだ一橋豊千代と名乗っていた家斉が将軍継嗣と決まると、ちょっとした騒動が起きました。
 このとき、豊千代はまだ九歳でしたが、四歳ですでに婚約していました。相手は島津重豪の娘・篤姫(のちの広大院)です。ところが、次期将軍と決まると、夫人が島津の娘であるということが困った問題になるのです。
 臣下である大名家の娘が将軍の正夫人となった先例がないからです。そのことを楯にとって難癖をつけようという者が出てきます。

 真っ先に文句をつけたのは尾張宗睦だといわれています。弱った重豪は意次に相談。頭の回転が速い意次はすぐに打開策を思いつきました。篤姫をしかるべき公家の養女にしてしまえばいいと考えたのです。
 白羽の矢が立てられたのは島津とは縁続きの近衛家。話はすぐにまとまりました。尾張宗睦は地団駄踏んで悔しがったけれども、あとの祭りです。

 篤姫は近衛寔子(ただこ)と名前を改めて、豊千代とともに江戸城西丸に入りました。意次のおかげで、重豪は将軍の岳父となることが決まったのです。そのお礼が長さ三間もの純銀の舟だったというわけ。
 意次もこのときは、次の将軍の懲罰人事で足許をすくわれようとは思っていません。悪の権化のように言い触らされていますが、基本的には人がいいのです。将軍が交替しても、自分はご奉公専一、と考えています。

 意次の人の良さは情に厚いところにも顕われています。縁ある者で困っている人がいれば、手を差し延べずにはいられない。
 このとき、困っていた一人は意次の父意行の朋輩で、西丸目付という役目に就いていた岩本正行という旗本でした。
 岩本には富子という娘がおりましたが、非常に醜女だったそうで、年ごろを過ぎても縁づく先がない。

 意次に相談を持ちかけると、即座に大奥へ上げてはどうか、ということになりました。大奥に上げることぐらい意次には造作もないことです。大奥にもいろいろな持ち場があって、全部が全部美女でなければ勤まらないということはないからです。

 情に厚くても、情に溺れる人ではありませんでした。できるところまではしてやるが、ゴリ押しということは決してしない。
 だから、富子についても、大奥へ上げるところまでは運動しましたが、それ以上に出過ぎたことはしない。
 富子自身も、父親の岩本も、大奥へ召されるというだけで満足したので、それで充分でした。

 富子が無事大奥へ上がると、家斉の父・一橋治済(はるさだ)が意次に超弩級の仰天話を持ち込んできました。
 なんと富子を自分の側室にしたい、というのです。稀代の醜女という富子を、です。
 さしもの意次もこれには心の臓がでんぐり返るほど愕いた。

 その一方で、意次追い落とし工作は着々と進んでいました。
 仕掛け人の一人は松平定信です。定信は白河藩主となったからか、それ以前からか、幕閣に連なって政治をやりたいという欲望を持っていました。
 ところが、幕閣に連なるのには条件がありました。
 江戸城では大名たちの家格、禄高、その他に応じて城内詰めの間(伺候席)が決められていますが、溜之間詰めでなければ中枢部には入れないのが決まりなのです。

 残念なことに、白河藩は帝鑑間詰め。そこで定信が何をしたかというと、自身がもっとも忌み嫌っていた賄賂攻勢を仕掛けました。
 貢ぎの対象となるのは一番権勢を誇っていた人物、意次です。

 ここでも意次は人が良い。
 青臭かった定信が政治に興味を持ったということは、ようやく世の中の甘い辛いがわかってきたんだな、と好意的に受け止めています。
 じつに人が良い。定信の魂胆が見抜けていないのです。
 ただし、定信も利用されています。それがもう一人の仕掛け人の仕業であることはいわずもがな……。

 と、いうところで、紙芝居のおぢさんはドンドンと太鼓を鳴らして、帰り支度を始めました。
                            


 我が庵に近い飲み屋街の一角で見かけた野良の仔猫殿です。
 ここに画像をつけたのにはとくに意味はありません。右後ろの黒っぽいところに立っていたのですが、私がカメラで撮ろうとすると、トコトコと歩いてきて、坐ってくれました。
 鞄の中には食べられるようなものがありませんでした。「悪いね」といってカメラをしまうと、またトコトコと元の場所に戻って行きました。今年生まれたばかりのようです。なかなかの美形でした。