桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

猫町(?)の將門神社

2010年10月20日 17時40分14秒 | 寺社散策

 月曜日、我孫子で面接があったので行ってきました。結果がわかるのは来週ということですが、私の自己判定ではどうも凶。
 死に物狂いで生きている人だっているのに、ちょっとハスに構えているような自分はよくないなぁと思いながらも、落ち込んで息もできぬような状態に陥るよりはいいか、と。

 十時の約束で行って、三十分足らずで終わってしまったので、我孫子駅まで戻って、柏にある將門神社を訪ねることにしました。
 この神社は柏市にあるのに、柏市内からのバスの便はなく、我孫子駅が起点となる土地にあります。しかも、バス停は最寄りにはなく、バスを降りてから少し歩かなくてはならないみたいです。

 手賀大橋を渡り、上り坂の途中にあるスポーツ広場入口というバス停で降りると、彼方に手賀沼が見えました。

 


 まずは手賀沼を見てみましょうと行ってみると、広々とした立派な遊歩道が整備されていて、目の前はハス(蓮)の群生地でした。水田にあったハスが徐々に沼に進出し、いまでは10ヘクタールにも及ぶそうです。
 画像上は手賀大橋(全長415メートル)遠望、下は去年、前を通ったことのある対岸の手賀沼親水広場の水の館(左)と鳥の博物館です。

 市販の地図を携帯していましたが、ちょうど降りたバス停のあたりで地図が途切れ、將門神社のあるあたりはページをめくらなくてはなりません。しかもわかりにくさを増すように、バス停の載っているページは一万五千分の一、次は三万分の一と縮尺が異なっています。
 なぁんだ目的地は思ったほど遠くないなじゃないかと思っても、縮尺が違うのですから、実際は倍の遠さなのです。

 見渡したところ手賀沼と台地に挟まれて、ただただ農地があるのみで、目印になりそうなものはおろか民家の一軒もありません。
 地図は? と目を落とすと、遊歩道と台地の裾を走る道路と、その間を結ぶ農道が記されているだけです。建物がないので当然です。
 遊歩道のカーブの仕方を地図に照らしながら手探りで歩くほかはなさそうです。



 將門神社を目指している途中で見つけました。「さしあげます」と記されていますが、何をくれるというのか、示してある下には何もありません。鉄板の後ろを見てみれば空き地があるのみです。まさかこの土地をくれるというのではあるまいに……。

 私が歩いていた右手はずっと台地がつづいています。地図では台地であることはわかりませんが、神社はどうやら台地の上にあるようです。だが、歩いても歩いても台地を上って行くような道がない。
 いくらなんでもちょっと歩き過ぎではないかと感じるころ、染井入落(そめいいりおとし)という小河川を渡る遊歩道の橋が見えてきました。地図には河川名はなく、河川を示す水色の線があるだけですが、いかにも行き過ぎてしまっていることを示しています。

 川が流れているせいでようやく台地が切れ、そこに道がありました。真っ直ぐ行くと染井入落にぶつかり、染井新田というバス停があるはず……。
 全然違うところに出たらどうしようかと思いながら歩いて行くと、バス停が見えてきて、めでたく染井新田とあるのが見えました。初めて地図と現実が一致しました。

 目指す將門神社は二つ先のバス停を過ぎた少し先を右折すればいいようです。どんなバスが走っているのかわかりませんが、この道ならバスが走っていそうだという道を選んで歩きました。 



 染井新田の次のバス停。
 バスが走っているのを目撃していないので、本当にバスの通る道を歩いているのかどうかわかりません。バス停があるのを見つけてひと安心です。
 簡易な待合い所があったので、ひと休みすることにしました。時刻表があったので見てみると、バス(それもコミュニティバス)を見ないのも道理。一日に三便しかありません。鷲野谷という名のバス停でした。



 鷲野谷のバス停前。何かと思って近づいたら、辨榮(べんねい)聖者の御生誕聖地という石碑だったので、愕くと同時に恥じ入りました。

 浅草に棲んでいたとき、すぐ近くに日輪寺という時宗のお寺がありました。明暦三年(1657年)の大火で焼けて、浅草に移転してくるまでは現在の大手町にあって、平將門の首塚とも神田明神とも繋がりの深いお寺です。
 別名芝崎道場と呼ばれる念仏道場で、若き日の辨榮さんはここで熱心に修行されたそうです。
 辨榮さんの逸話を、日輪寺の先代のご住職からもっと詳しくお聞きしようとしていた矢先、亡くなってしまわれたので、私の中では宿題となり、時が経つのに連れて、宿題があることも辨榮聖者のことも忘れていました。

 蛇足ながら、納豆は日輪寺が発祥の地です。
 寺がまだ神田明神そばにあったころ、修行中の僧に供される食事の中に、金含豆(こんがんず)という豆があったそうです。これが納豆の前身で、「神に納める豆」の意からその名がつけられたといわれています。神田明神前の天野屋という店では芝崎納豆として売られています。



 辨榮聖者。画像は新潟大学理学部数学科のホームページから拝借しました。

 辨榮さんは近代の僧侶の中では、我が曹洞宗の澤木興道老師と並んで、私がもっとも尊敬する人です。生誕の地という石碑を見て恥じ入ったのは、尊敬しているといいながら、生誕の地を知らなかったからです。

 家に帰ったあと、石碑があった近くに醫王寺というお寺があり、そこに辨榮さんのお墓があることを知りました。
 ところが、私が携帯して行った地図には醫王寺が載っていませんでした。インターネットで地図を見ると、すぐ近くを通っておりましたのに……。

 辨榮さんの俗名は山崎啓之助。
 そういえば、バス通りを歩いているときに山崎種苗店という店を見かけていました。田舎の集落ですから、山崎という家は多いのに違いなく、そこが辨榮さんの生家かどうかはわかりませんが、地図に載っていれば、とりあえずは訪ねてみたのに相違なく、訪ねれば辨榮さんのお墓に出会っていたはず、と思うと、返す返すも残念なことでありました。必ずや再訪しなければなりません。

 


 鷲野谷のバス停から約1キロ。やっとこんな標識を見つけました。

 去年八月、私は茨城県坂東市(旧岩井市)にある國王神社を訪ねています。祭神は平將門。地名が同じ岩井というのは偶然ではないでしょう。將門にゆかりのあるどちらかの民が移住した地に將門を祀り、岩井と名をつけたのに違いない。

 画像を添付してもサマにならないので割愛しましたが、集落は広い畑地と森に囲まれた窪地にあり、外界からは隔絶されているようなイメージを懐かせました。
 野菜の集荷にでも使うのか、この地区の集荷場と記された建物があって、それが山奥にある温泉場のバスの待合所のように見えたので、私はふと「猫町」に迷い込んだかと思ってしまいました。

 猫町とは、つげ義春が書いた「猫町紀行」に出てくる旧甲州街道の町並みです。萩原朔太郎に「猫町」という幻想的な散文詩ふう小説があって、多分にそれを意識して書いたと思われるのですが、私は世間と隔絶されたような集落を見ると、自然に猫町という空想上の町を思い浮かべます。
 全国を廻れば、外界と隔絶されたような集落はあまたあるのだろうと考えられますが、私が関東で知っている限り、ここが二つ目。もう一つは奥秩父の川又集落です。



 猫町の中心にある龍光院。真言宗豊山派の寺院で、長享二年(1488年)の創建。



 龍光院境内の地蔵堂。
 建立は長享三年(1489年)。元和二年(1616年)の火事で灰燼に帰したが、本尊は焼失を免れ、再建は安永三年(1774年)と説明板にありました。
 前身の祠を建立したのは將門の第三女だと伝えられています。
 父・將門が戦に敗れたあと、この地に庵を結んで静かに暮らしていましたが、ある日、病気になると、たちまち地獄に堕ちてしまった。しかし、地蔵菩薩に助けられて蘇生したので、以来、如蔵尼と改名して、祠に父の霊を祀るとともに、地蔵堂を建立して信心三昧の日々を送ったそうです。

 旧岩井市にある國王神社の伝承では、娘は会津の恵日寺に逃れて出家。如蔵尼と称し、將門の死後三十三年目に岩井に帰って庵を結び、父の霊を弔ったと伝えられていますが、大筋は一緒です。



 龍光院に隣接してある將門神社。
 説明板には、將門の名を冠した神社は全国で唯一と書かれていますが、手賀沼の対岸・我孫子市にも將門神社はあります。説明板は区民一同によって建てられたことになっていますが、唯一と思い込んでいるのは勉強不足。ただ、將門が討たれたのは「午後三時」と時間まで限定して記しているのは面白い。

 それにしても人の姿をを見かけません。出会ったのは龍光院に到る前、トラックを止めて自販機に飲料の補充をしていた人が一人だけ。やはり猫町か?
 といって、猫もいないけれど……。〈つづく〉



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