宮尾登美子さんの「仁淀川」を読了。

読まないと落ち着かないという気持ちで読み進む。
主人公の綾子は宮尾登美子さんの分身だ。
彼女の本は、父や母を思い出させる。
つと、本から目を離して母を思う。
父を思う。
よく育ててくれたなあと思うし、どこからお金が出てきたのだろうと思ったりもする。
苦労したんだろうなと思い、自分の生き方に思いがいく。
五右衛門風呂があって、そうよねえ、板を沈めて入ったのよねえ。
わが家は、商売していたから、早くからお風呂があった。
母や父が沸かしてくれた(私もやっていたけどね)
昨日はふき掃除をしながら、ほとんど毎日、縁側、玄関とふき掃除、庭掃除をしていたのを思う。きれいになって気持ちよかったなあと思い出す。
母は、仕事も遅くまでやっていて、私は、母が床についたのも気づかなかった。
そのことは小学校2年生の私の作文に書いてある。
彼女の本を読みながらいろんなことを思い出す。
そして、彼女の時々の気持ちに同意する。
姑のいちの「私はねえ、なんでも人並み、ということをずっと心がけてきた。出ず入らず、飛び出さず、引っ込まず、何でも人と同じにしておれば世間からうしろ指を差されることもないし、笑いもんになることもない…略」という言葉に綾子は「人並みなんて嫌なこった…後略」
いちの考え方は、明らかに日本人の考え方「みんながしているから…」「みんなはどう?」式に繋がる。
でも、それもわからないわけではない。そんな時代だったのだ。そのために頑張ったということも頷ける。
でも、綾子は「考え方でも身装(みなり)でも、自分は自分、人は人、と劃してきたし、これからもそうしたい…略」と思う。
私は綾子の考え方がいい。
檀ふみさんが、あとがきで、ここに触れているが、時折の綾子の考え方にそうだそうだと思うことが多かった。
この前の伊達の山荘の話もあとがきに出てきて愉快だ。
彼女の本をなぜ読むか。
女性の生き方があり、時代的なものが父や母を思い出させる本だからかもしれないなとおぼろげに思う。
私の幼いときを思い出させるのです。
「釜屋」がそうであったように…。
本っていいな。
また、彼女のエッセイを買ってある。
読みます

読まないと落ち着かないという気持ちで読み進む。
主人公の綾子は宮尾登美子さんの分身だ。
彼女の本は、父や母を思い出させる。
つと、本から目を離して母を思う。
父を思う。
よく育ててくれたなあと思うし、どこからお金が出てきたのだろうと思ったりもする。
苦労したんだろうなと思い、自分の生き方に思いがいく。
五右衛門風呂があって、そうよねえ、板を沈めて入ったのよねえ。
わが家は、商売していたから、早くからお風呂があった。
母や父が沸かしてくれた(私もやっていたけどね)
昨日はふき掃除をしながら、ほとんど毎日、縁側、玄関とふき掃除、庭掃除をしていたのを思う。きれいになって気持ちよかったなあと思い出す。
母は、仕事も遅くまでやっていて、私は、母が床についたのも気づかなかった。
そのことは小学校2年生の私の作文に書いてある。
彼女の本を読みながらいろんなことを思い出す。
そして、彼女の時々の気持ちに同意する。
姑のいちの「私はねえ、なんでも人並み、ということをずっと心がけてきた。出ず入らず、飛び出さず、引っ込まず、何でも人と同じにしておれば世間からうしろ指を差されることもないし、笑いもんになることもない…略」という言葉に綾子は「人並みなんて嫌なこった…後略」
いちの考え方は、明らかに日本人の考え方「みんながしているから…」「みんなはどう?」式に繋がる。
でも、それもわからないわけではない。そんな時代だったのだ。そのために頑張ったということも頷ける。
でも、綾子は「考え方でも身装(みなり)でも、自分は自分、人は人、と劃してきたし、これからもそうしたい…略」と思う。
私は綾子の考え方がいい。
檀ふみさんが、あとがきで、ここに触れているが、時折の綾子の考え方にそうだそうだと思うことが多かった。
この前の伊達の山荘の話もあとがきに出てきて愉快だ。
彼女の本をなぜ読むか。
女性の生き方があり、時代的なものが父や母を思い出させる本だからかもしれないなとおぼろげに思う。
私の幼いときを思い出させるのです。
「釜屋」がそうであったように…。
本っていいな。
また、彼女のエッセイを買ってある。
読みます
