あじさい物語

七色の紫陽花のような日々の心模様
       

薩摩の「義を言うな」「噛んつけ」

2014-10-09 22:34:36 | Weblog
今週は、忙しかったなあ。

4日間の仕事が終わって本当にほっとする。
今朝は届いた「辛夷」の歌集を読みながらの電車。
31文字に、その方の人生が見えて興味深い。

いろんな生き方を教えてもらっている気がする。
自分の気持ちを吐露する短歌、飾らず、素直に出せたらと思う。

意外と短歌好きかも…という自分がいる。

今日は、久々にいらっしゃったとなりの係りのバイトのMさんとランチ。
お金には困っていないというMさんなんだけど(うらやましい)「Fさんは、男だね」と言われる。
「目が外を向いている」と。
褒めて言って下さっているのはその表情からしてわかったのだけど…。
「色気がないこと?」なんて茶化したけど、自然、この前、銀座で「あなたの前世は男性で…」という話を思い出す。

気持ち的には男性的かもしれないなあと思うときもある。
実際、小学校4年生のときに「男の子に負けたくない」と思ったのを覚えている。
勉強でも、委員でも…だった気がする。

あの頃の負けん気はどこへ…なんて

でも、今は男性も女性もないですね。

自分を大切に主張しなきゃと思う。
もちろん権利だけを主張するのではない…。

母が薩摩の「義を言うな」は嫌いだと言っていた。自分の思っていることは言いなさいと。
「義を言うな」は、「屁理屈をいうな。文句を言うな」というふうに捉えているのだけど、そのことが「何も言うな」ということになりかねない。
そうすると、人は言いたいことを我慢して何も言わなくなる。
そこに発展はない。
それでは、ダメだと思うのだ。
私もやはり思うことは言わねばならないと思うのです。
女性でも、男性でも、人としてね。
そこからまた新しいことが生まれる。
言ってみてはじめて相手の意見を聞け、なるほどと思うこともある。そして、また、考える。
言うからこそ、いい意見を聞けると思うのです。
そして、いいふうに回っていくのです。

ノーベル賞の赤勇さんが恩師が「噛んつけ」といっていたというエピソードの記事を見た。

薩摩の「噛んつけ」だ。
以下、南日本新聞より抜粋。

「赤崎さんは以前、南日本新聞のインタビューで「『われひとり荒野(あれの)を行く』という心境だったが、決してあきらめるつもりはなかった」と語っていた。母校大龍小(鹿児島市)の恩師に言われた鹿児島弁の「噛(か)んつけ」という言葉に学んだ不屈の精神だろう。

 受賞会見で若い研究者に「はやりの研究にとらわれず、自分のやりたいことをやるのが一番。結果が出なくても、やりたい研究なら続けることができる」と望んだ。一途な研究者魂をのぞく思いだ。」

以上。

「噛んつけ」
懐かしい言葉である。



コメント
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