散策で見つけたよ!

自然を大切にし、健康な散策を続けることにより新しい発見があります、さあ今日も皆で出かけましょう。

宿野の えのみの木

2007年12月15日 | 花談義
三重県三重郡菰野町宿野
近鉄菰野駅の南東の金渓川の堤防上に一本の古木が見える、この木は、ニレ科の落葉樹の「えのき」で、秋に紅い実をつけ小鳥の餌になる、土地の人「えのみの木」とよんでいるようだ、江戸時代の東菰野村と宿野村との村境にあって、境の標木であった、宿野は中心に城屋敷があって、周りを取り囲むように民家が立ち並んでいて。「西の久保用水」が、ぐるりと廻り、城構えの村の濠の役目を果たしていた、 昔から村の境に樹木を植えて、境の目印にする習慣があり、水沢村境の「お茶場の松」、音羽と千草の「境い松」、田口と宇賀の境の「郡界松」などいずれも松の巨木が標木となっていたようだ、「えのき」の標木は珍しく、現在も健在でのこっていた。

えびやの赤松

2007年12月15日 | 花談義
千草集落の中心、「常夜燈籠」の西、福田貞郎家の庭に一本の赤松がある、この松は「えびやの赤松」とよばれて、村一番の名物松、幹の太さは目通り1.70m、樹の高さは、土蔵や母屋の屋根をはるかに越えて10mほどもある、枝は、四方に広がり、松のみどりも旺盛で、松喰虫も寄せつけず、元気な姿を見せている、赤松は、黒松にくらべて葉はやわらかく、幹は亀の甲状になって赤みを帯び、年を経るごとに光沢を増す、千草の赤松は棟木、梁などの良材を産出した、さて、この赤松の来歴は、福田家の4代前の重郎次(兵蔵)の代に、裏の松林から松の実が風で運ばれてきて、土蔵の北側の庭に自然に芽生え、それを大切に育てたもので、樹齢は、おおよそ150年ほどと 歴史こばなし で紹介されていた、常夜燈籠 から西をみました、近くでの見写撮れなかった。

千種のポプラ (陸軍廠舎跡のポプラ)

2007年12月15日 | 花談義
三重県三重郡千種、こものふるさとの木に紹介されていたので出かけた。
千草の前野、もと千種陸軍演習場の廠舎跡にある、ポプラは北欧原産のヤナギ科の落葉高木。高く伸び街路樹や牧場などの日陰木に植えられている、樹幹70cm、樹高は20m余り、ここは明治43年から昭和20年まで、兵舎4棟のほか、大隊本部、中隊本部、将校宿舎、厩舎など全部で8棟の廠舎が建てられて、構内には赤松の自然木がありましたが、ポプラは厩舎の西側に日陰と防風のために植えられていて、この木が1本だけ残り、今も生々として天を突く勢いとのこと、冬で葉が落ちていたので残念。

役場跡(現菰野地区コミュニティセンター)の黒松

2007年12月15日 | 花談義
菰野町の中心であった役場跡に植えられた、樹令は百年余の黒松、近くに日下部の柿の木がみえる、昔菰野町には松並木が多く存在していたようだが、その面影を見ること出来ない、一本一本伐採されていったことを残念に思う、これからは松くい虫による被害だけは避けたいものだ。

関の小萬のもたれ松

2007年12月15日 | 花談義
三重県亀山市関町
関宿の入り口左手に関の小萬のもたれ松がある、久留米藩士牧藤左衛門の娘である小萬はこの地で生まれ育ち、亀山に通い武術を収得し、見事父の敵、小林軍大夫を討ち取った。この松はその小萬が若者の悪戯を避けるために身を隠したとものと伝えられている、残念ながら身を隠せるような巨木は無く説明板で昔を偲ぶだけである。