細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

鞆の浦・萩ツアー

2013-01-14 09:06:15 | 研究のこと

濃厚な時間を過ごしているのはいつものことなのですが,このツアーも凄まじい濃厚ぶりでした。

1/10(木)にギリギリの状態で業務と論文投稿作業を終えて,ちょっとだけ留学生と缶ビールで気分転換をしてから新幹線で福山へ。この日は3限の講義前に講義室の外でコンビニの昆布おにぎりを1分でほおばって講義に臨む,というバタバタぶりでした。

1/11(金)は終日鞆の浦。メインイベントは,13:40から40分程度の,鞆小学校の全校生徒の前での防災授業でした。指導学生の赤間君の研究の一つの集大成でもあります。そもそも,鞆の浦の小学校で防災授業をできる,ということ自体がすごいことだと思いますが,その経緯はここでは省略するとして,その授業のコンテンツはほとんどすべて赤間君が自分で創り上げた秀逸なものでした。全校生徒の避難訓練の後,体育館に生徒たちが集合して,授業が始まりました。私も,赤間君と一緒に前で授業をする側で,赤間君の説明を部分的に補佐する形で参加しました。例えば,「防災」「災害」って何?ということを端的に小学校1年生が分かるように説明をする,など。ビデオもきちんと撮影しましたので,赤間君の卒業研究の一部として活用されることでしょう。

さて,この日は,いつも仕事を一緒にしている山口県の二宮さんとその後輩たちも参加されました。

朝から,鞆の浦を知り尽くしている赤間君オリジナルの行程で歩いて学ぶ,というツアーでしたが,今日はお会いできないと思っていたさくらホームの羽田冨美江さんと偶然お会いすることができ,30分ちょっとでしたがいろいろとお話しすることができました。日本の先端を行く「地域介護」の中核を担うさくらホームですが,二階に上がって,いかにお年寄りが人間らしく過ごすことができる造りになっているかを「実践的に」解説していただきました。やはりすごい。2.23の熱血鞆の浦合宿では,羽田さんに地域介護の醍醐味を存分に語っていただくように段取りいたします。



赤間君のツアーは秀逸でした。四季折々,あらゆる時間帯を歩いて魅力を知り尽くしている赤間君ですので,各場所を訪れる時間帯まで考え抜いています。日の当たり方や沈み方などもです。われながら,優秀な学生と一緒に研究をできて幸せに思います。



お昼ごはんは,これも地域の中核の一つである,お好み焼きやの「のむら」でみんなでいただきました。ここのおばあちゃんはお店を切り盛りするかわいらしいおばあちゃんですが,何と90歳近いのです。みんなそれぞれのお好み焼きを注文しましたが,「間違えるといけんけえ,みんな同じのにしんさい」と言われて,同じ「そば入り豚玉」を食べました。いいですねえ,こういうぬくもり。

 

昼食後が,冒頭の,鞆小学校での防災授業。赤間君が一所懸命に創り上げた授業でした。私も授業を提供する側の人間でしたが,秀逸な内容であったと思います。私もプレゼンテーションでは百戦錬磨で,いろんな方から何度も褒められたことのある人間ですが,私が完全に安心して,「パートナー」として任せることができた赤間君は,相当な能力の持ち主なのでしょう。「指導する学生」ではなく,「パートナー」として授業に臨んでいました。



授業の後,鞆小学校の校長先生らと談笑し,同席された鞆中学校の校長先生とも今後の連携を誓い合った後,船で仙酔島に渡りました。私もこの島に行くのは二回目ですが,とても大好きな島です。夕陽を眺めながら,鞆の浦,瀬戸内海,四国の山脈の景色を皆でため息とともに堪能しました。 

 

夜は,「衣笠」という店で打上げ。赤間君の労をねぎらうとともに,途中からは,来年,赤間君の研究を後継する学部3年生も合流して盛り上がりました。山口県の二宮さんらは途中で帰られて,その後,私と学生たちはさくらホームの離れで12時近くまで語り合いました。

さて,翌日の12日は,皆で新山口まで移動しました。山口県の二宮さんやその後輩の方々に,萩を案内していただくためです。萩は言うまでもない,長州の本拠地でありましたが,歴史的な建造物も非常に多く残る素晴らしい街です。その景観保存も含む街路整備などに関わってこられた県の職員の方々にご説明いただきながら街歩きをする,という何とも贅沢なツアーでした。しかも,その方々は前日に鞆の浦を赤間ツアーで一緒に歩いており,皆が二つの素晴らしい魅力にあふれた事例についていろんなことを感じながら,語り合いながら歩く,という何とも言えず魅力的なツアーとなりました。



「涙松」。吉田松陰が最後,江戸で処刑されるときに,故郷の萩を出発して,萩の景色を振り返るところです。「かえらじと思い定めし旅なれば ひとしおぬるる 涙松かな」と詠んだところです。

同行した3人の学生たちは,吉田松陰が誰かも知らず,なぜ萩に長州の拠点があるのかも知らないような歴史オンチでしたが,福山から新山口に移動する新幹線さくらの中で,私がごく簡単にレクチャーし,前日に山口県の方々からいただいた秀逸なパンフレットなどの予習資料を解説しながら読ませました。この「涙松」に到着するまでには彼らもそれなりに予備知識を蓄えておりましたので,感激しておりました。これも,歴史教育であります。

 


萩に入ってまずは「相場川」沿いを散策。言葉が出ません。萩の街中のための用水路(物資を運搬するための小舟も通る)沿いを歩くわけですが,江戸の街並みがそのまま残っているイメージで,皆が感激しながら贅沢な散策をしました。大きな鯉がたくさん泳いでいて,餌もやりました。

すべてをこの記事で紹介することは不可能ですが,萩の街並みの景観を残すために,街づくりの公共事業でもいろんな工夫がなされていました。「色」が大切なので,ガードレールなどの色も茶色で統一。シティブラウンという色だそうです。視覚障害者のための歩道ブロックも普通は黄色ですが,いろんな交渉,折衝を重ねて,景観となじむデザインが採用されていました。ユニクロなどの店舗の看板も基本的にはシティブラウン。これも公共事業だぞ!と国民に見せてあげたくなるようなコンテンツ満載でした。


 
お昼ごはんを,シーマートという道の駅でいただきました。これがまた秀逸。のどぐろも含まれた秀逸な魚の御膳を堪能いたしました。港に隣接しているので魚もおいしいですが,道の駅の中の市場が活気があって品ぞろえも素晴らしく,皆で堪能しました。私も持っていた現金を使い果たしてしまいました。地元の方々もわいわいと集まるこの活気。東日本大震災のときも道の駅の大活躍が脳裏に焼き付いていますが,今後の道の駅のあり方についてまた一つ考えさせられました。



さて,昼食後に松陰神社へ。多くは語りませんが,私自身は「松陰魂」を注入させていただきました。遠く松陰先生には及ばないものの,私がやろうとしていることも松陰先生と同じなのだと感じます。どれだけ国のことを思う人財を育てられるか,実践できる人財を育てられるか,です。心新たに精進を重ねたいと誓いました。



松陰先生が入っていた野山獄にも訪れました。この獄に入っておられた1年2ヶ月の間に612冊の本を読まれたとか。獄の中で囚人たちに講義をしていたのは有名な話です。


 
野山獄の後,萩の城下町を歩きました。武家屋敷のエリアと,町人の住むエリアで大きな違いがありましたが,武家屋敷のエリアでは電柱を街路から撤去する取組みも公共事業でなされ,秀逸な景観でした。萩ですからすぐ近くに日本海もあるわけですが,小山のふもとの城跡と,最終防御の砦であった山,そして美しい海と白砂青松。言葉にならない景色でした。私自身の血も島根県の日本海側の出身ですので,私の根底にしっくりとくる景観でした。



松陰先生が講義をされた藩校「明倫館」は,現在は明倫小学校となっています。その建物にもみんなが嘆息しました。「こんな小学校で勉強したい!」と学生たちが感想を漏らしておりました。シーソーで遊んでしまいましたが。遊び心もいつまでも大切にしたいものです。

二日間で鞆の浦と萩を歩き回り,本当に日本が守っていかなければならないものが何なのか,皆で肌で感じました。これが真の勉強であり,そしてこれを自分たちの日常で実践していかなければなりません。鞆の浦では2万歩以上歩いたようです。

もはや,単なるコンクリートの研究者でなくなってきたことは明らかなのですが,自身の興味や活動の幅はとめどなく広がっていくでしょう。

あまりにも濃厚な二日間で終盤は頭もくらくらしていましたが,新山口駅で学生たちと小一時間復習し,新幹線の中でも広島駅まで復習を続け,私は乗り換えて一人新横浜まで(獺祭の磨き二割三分を,板垣さんにもらった湯飲み茶わん(萩焼)で少しだけ飲みながら「松陰読本」を途中まで読んだ後,爆睡)帰り,学生たちはまた鞆の浦に戻りました。翌日の日曜日は,赤間君が学生たち2名を鞆の浦で指導するそうです。

さて,1月も中盤戦に入りましたが,濃厚な日々が毎日重ねられていくでしょう。