銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

私が、元大本営参謀夫人に、轢き殺されそうになった1979-10-11(+佐藤亜紀、田中愛子、渡辺幸子)

2014-10-09 11:38:42 | 政治

 今は、11日(土)の午前、10時ですが、今から外出をしないといけないので、下の文章を未推敲の、ママ置いておきます。後で、直します。お待ちくださいませ。

副題1、 ところで、私はこのエピソードをごく最近まで、10年近く秘めていたのですが、しかし、友人にだけは電話で、「失礼な目にあった」と愚痴っています。上の方で言っている様に、日本のトップクラスの人たちから、(それは、後述する様に、阿刀田高さんにも及ぶのだが)頭がいいとほめそやされていて、田中愛子さんは知らなかったでしょうが、佐藤亜紀さんやら、ほかにも四人の大新聞所属の記者たちとタメぐちを聞けるし、一緒にお食事会(ただし、主に同窓会だが)も、催している私にとっては、失礼千万な言葉であり、行為でしたから。

 しかし、ここで、ちょっと余談に入りますが、彼女がベッドさえ伊藤玄二郎と共にする間柄だったら、伊藤玄二郎が、すでに、大物エージェントと化していて、その理由は私にあったと知っていて、ああいう失礼な態度をとったのかもしれませんね。それが、また、今の文章を書く傍証の一つとなっています。なぜ、私が伊藤玄二郎にとって、出世のえさになるかというと、私のご近所に石川和子さんと、言う、自分から『私は伊藤玄二郎の元愛人だから、彼によくしてもらっている』という女性がいて、彼女を使って、種々の心理的弾圧を私の生活に加えてきているので、彼が重要な人物として、のし上がってきたのです。

  しかし、これほど、理不尽なことはないです。この件では電話が盗聴されていることが明白です。後ほど、毎日新聞の縮刷版を検討すれば、この記事が何年の何月に載ったかがわかりますが、それで、田中愛子さんが、どなった後の何年目だったかが証明できるでしょう。そして、どれほどの、準備期間を経て、このインタビューコラムが成立したかも明らかにできるでしょう。

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副題5、『元大本営参謀という知恵者も、間違った情報源に頼ることがあるのだった。そして、命を落とすのだった』

 瀬島隆三に私は苛め抜かれています。今回の朝日新聞の記事の、ノーベル平和賞を憲法9条にというのも、その一つです。それは、実質的にはまだ、生きている井上ひさしに、授与させようという動きです。その井上ひさしこそ、私の文章を検討しぬいていて、どこが、攻めどころかを、逐一探っている人物です。

 今までは、平和賞は人物に下っていました。ところが、憲法9条という抽象的なものに下るので、異例のことだという文化人の言葉が、朝日新聞の、2014年10月9日朝刊、第13版、第39面に、載っていますが、異例ではなくて、実際は通常通り、人物に下るのです。で、それが、決定した後では、また、井上ひさしブームが起きるでしょう。

 でも、井上ひさしがどうして、そういう役目を持っているかというと、伊藤玄二郎とペンクラブ関連で親しいからか、それとも、瀬島隆三直々にリクルートをされたのか、どちらかはわかりませんが、この受賞で、『一気に挽回してやろう、復讐してやるぜ。ブログで、いろいろ、俺の悪口を書きやがって。待ってろ、雨宮舜(=川崎千恵子)目』と、内心で思っているのは確実です。

 ところで瀬島隆三とは、戦後最大のエージェントであって、山崎豊子の不毛地帯のモデルだと言われています。私箱の人と直接戦ったわけではなくて彼の大親友だという益山某元大本営(海軍担当)参謀と戦ったのです。

 この人が大勘違いをして、私をなめきって、その詐欺事件で、私の土地を取得するがごとき動きをしたので、私は戦ったわけですが、益山夫妻が、大失敗をしたのは、ご近所仲間のJ夫妻という人間からの情報を主に使ったからでしょう。J夫妻は、簡単に言うと、当時、ときわ相互銀行(=現在の名前、新生銀行)に勤めている夫と、専業主婦の妻の家庭で、わが家の子供二人より、それぞれ、2,3歳上の男の子と女の子とを育てていました。ところで、その女の子がお菓子を盗み食いをするのです。何度叱っても止めません。で、仕方がないので、隠しました。天袋とか。ところが、いつの間にか見つけて、そして、隠れて食べるのです。ものすごく疲れたし、振り回されました。以前、朝8時45分から、夕方の6時まで預けっぱなしの親がいると、申しあげました。その子も、しつけをぜんぜんされておらず、幼稚園は三円から入園拒否をされるという大変な子でした。それの面倒も見て、この盗み食いをする女の子の面倒も見る。あの時節も本当に大変な時期でした。でも、男の子の方は愛らしいところはあったのです。それに乱暴だったり、ものを壊したりはしましたが、家の中で、母親の目の前で、遊ばせてもらったことがないので、自由行動の結果起きる迷惑行為をやめさせるというしつけが、一切できていないのは知っていました。ところが、こちらの女の子は、そういう部分は大丈夫なのですが、もっと態度と心が陰険で、私の注意など、まったく小ばかにして言うことを聞かないのです。

 子供って、4歳ごろには知能というか、知恵という意味では、大人になっています。そして、子供によっては大人をなめています。恐ろしいが、そうなのです。それで、どうしてこうなるかをつくづく考え抜いたのですが、仲良しだったころに J 夫人が、父は戦死しました。と言っていたので、お母さん自身が、小さい頃、貧乏で育ったということはわかり、それで、今、(1975年ごろ)も、お菓子を買って与えていないのだということは、推察ができました。我が家には、いつも、たいへんに大勢の子供が遊びに来ていたので、午後にお兄ちゃんが帰ってきたら、六人ぐらいに三時のおやつをあげて、午前中には、この女の子と、我が子二人に、一〇時のおやつを上げる予定であって、一週間に二回、袋菓子を、5,6袋X2の、15個ぐらいは買ってきていましたが、それが、珍しいのでしょう。

 繰り返し、皆様に言いますが、ご近所づきあいとか、ママ友とは、必ず、平等にしておいて、貸借関係がないということにしておかないとだめです。この場合も一方的に我が家に預けっぱなしだから、、いけなかったのです。どうしてそういうことになるかというと、幼稚園に行かせていないので、わが家の子供より、年齢が高いので、母親は相手の子供の、子守を兼ねて、面倒を見てあげているというぐらいの、勘違いがあって、遊ばせてあげているのにお礼を言ってくれません。これは毎日、毎回お礼を言わないとだめなのですよ。

 それをやらないと、相手の親とのコミュニケーションがないということで、『あ、お母さんに、このおばさんは言いつけないのだわ』とその子が考えてしまうので、よけい、悪さを続けてしまうのですね。うちの子を支配してしまう。だけど、平等にしていて、「今日はお宅、明日は、うちで遊ばせましょう」ということになれば、子供の遊ぶ、様子が目の前で、よくわかります。そして、親同士もあいさつ以上の話を、子供を引き取ったり迎えに行った時にするでしょう。だが、一方的に私が預けられっぱなしだと、それだけで、すでに、嫌気がさしていますね。そのうえ、どんなに叱っても、そして、どんなに高いところに隠しても、どうしてか、見つけて盗み食いをしてしまう。   

 これには本当に疲れましたが、こういうことは本当に相手には、言いにくいことなのです。

 だからね。安易な気もちで、子供に特殊な環境(幼稚園に行っていない)を与えてはいけません。両親が貧乏だったら、母親が働くわけだから、保育所に預けますよね。だけど、貧乏じゃあないのです。ただ、「幼稚園なんて、ただ遊ばせているだけだから無駄よ」という考えなのです。幼稚園というのは、確かにそうです。だけど、そこで、友達を見つけて、自分の居場所を確保していくのです。そのお嬢さんが、自分と同い年の女の子と遊ぶのだったら、相手の子は、母親に、J ちゃんて、「お菓子盗み食いをするのよ」と告げ口をするでしょう。子供なりに力関係が対等だから。それで盗み食いが原因で、友達の家から、出入りが禁止されて、それで、お母さんが気が付くか、女の子自身が自分で気が付いていくでしょう。

 しかし、うちの子が二才か、三才で、そちらが、四才か五才という、二才の年の差は、大きくて、うちの子には、相手の子を制御する力はないのです。そのうえ、どうも、怖がっていて、母親に何も告げ口はしません。もしかしたら、お母さんに、つねられるという形で、しつけられていて、それで、うちの子に、口止めをしながらつねったりしていたのかもしれません。

 ただ、私の方が、お菓子がいつの間にか、無くなるので、盗み食いに、気が付いたのです。ちゃんと上げようと思っているのです。だけど、午前10時になるまでの、たった、一時間が待てないらしいのです。で、ある日、押し入れの下段に隠れて、東鳩のキャラメルコーンというお菓子を食べているときには、客布団用の、真っ白な、シーツの上に、生キャラメルをべとべとにつけながら、盗み食いをしていたので、とうとう頭にきた私は、お母さんを呼びました。そして、現場を見せました。

 その現場を見たら、やはり、大いに恥ずかしかったでしょう。で、恨んだり悪口を、あとで、言ったりしたらしいのですよ。だけど、見当違いも甚だしいです。こういうお子さんは、あの北久里浜の住宅街でも、めったにいませんでしたよ。つまり、母親が本当の愛をもってしつけていないのです。非常に安易に怒りつけて、言うことを聞かせているはずです。だから、子供は、心から、納得をしたという形で、善悪を身に着けていません。四歳の子供でも、すでに、面従腹背ということを知っていてその典型です。世の中のお母さんに本当に言いたいのだけれど、子供のしつけって、すさまじいエネルギーがいるのですよ。そして、自分の全人生の反映でもあります。

 この経験から、私は真実のしつけとは、親しかできないし、その親も子供に愛情を持っている場合でないとできないのだと、とことん感じいった次第です。

 本当に困りました。親は、『幼稚園なんて、無駄だ』という考え方で行かせていませんでしたが、絶対にほかの人と同じような暮らしをさせるべきなのです。J家が、特殊な道を選んだのは、地形も関係があります。三浦半島の狭い丘の上で、目に入る範囲に、8軒しか家がない場所であって、そのうち、小さい子がいないので、近所づきあいをしていない家が、四軒もありますので、他人からは批判をされないと思ったらしいのです。つまり、『他人から、あの家は、けちだと思われ、冷笑されなぜ、私は瀬島隆三に、情念のこもったいじめを受けるのか? その理由をかいつまんでここで語ろう』ることが、ここなら、ないだろう』と思ったらしいのです。他人は確かに、そんなことに首を突っ込んではきません。でも、子供が、盗み食いをしてしまうのです。幼稚園に行っていれば、午後からしか近所では遊べませんね。すると、大勢の子が一緒に、遊びます。となると、子供同士の監視の目があるので、こういう悪さはできません。

 さて、益山さんが、大きな、実質的な詐欺事件(表向きは、地籍変更届という合法的なもの、でも、すでに、建売住宅に使ってしまって、自分の持ち分が公簿上、たった、一坪しかないのに、一二〇〇坪にただで、増えていくのだから、変なものです)を完成させるためには、11軒の地境地主の実印を書類に押してもらう必要がありました。

 で、益山さんが、もっとも、上位において片腕として使ったのが、ミスターJであり、最もバカにしたのが、私でした。で、私に関して、J 家側からの恨みの情報だけを仕入れていたのです。それでは間違います。わたくしは、お母さんを呼んで、汚れた布団は見せました。そして、ずっと長い間、私が我慢をし続けてきたことも告げました。だが、当時はブログなどやっていませんから、私がどれほど、長い間、苦しんだか、そして、我慢を続けたかが表に出てきてはいません。

 そこを勘案しないで、私を馬鹿にしてはいけません。私はものすごく強いので、近所の人に、うわさ話を流して、うっぷん晴らしをしようとは思っていません。それに、子供のことですから、悪い癖が治れば、また、一緒に遊ぼうと思っていました。そういう抜群に深い心と頭脳を持っていることが、J 夫妻などには、まったく見えないし、読めてもいないでしょう。格が違うのです。で、自分たち側から見た、私像を告げ口しているがために、益山夫妻は、とち、くるってしまったのです。で、法務局も財務局も、<これが、実質的には、犯罪なのだが、通さないといけないのですよ>と、私に説明しないといけない羽目になったりして、本当に青息吐息でしたね。

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副題6、『困り果てた益山夫人は、私を車で轢き殺そうとした。だが、私は助かり、ご主人が、かわりに(?)死んだ』

 私は何度も言っています。性善説の人です。で、益山夫妻は、夫が、元大本営参謀(海軍担当)であり、奥様は、都立大学(現在名・首都大学)の土木工学科出身です。だから、殺人未遂までやるなどとは夢にも思っておらず、その1979年の秋から、母校の国際基督教大学に学士入学していました。で、今思うと、私の留守の間に、子供たちが J 夫妻にいじめられきっていて、とても、不安を感じていたのです。だけど、夢にも人を疑わないので、毎日4時ごろ帰って来ていました。10月でも4時ならまだ明るいです。

 益山夫妻は、元大本営参謀ですから、彼らなりの調査はしているのです。電話の盗聴は無論です。わざとそれをやっているのを誇示するがごとく、わが家の真南にある電話線を工事人を呼んで、いじったりしていました。で、私が学士入学をしているのは知っています。母校のICUは、三鷹駅からさらにバスに乗って、20分ぐらいかかるところにあるので、一日に、一単位か、二単位取るだけでも、帰宅は四時過ぎになるのでした。その午後四時を狙って、益山夫人が車で、強引に轢き殺そうとしたのでした。それは、1979年10月11日のことだったと覚えております。

 ところで、以下の写真は、私の北久里浜の家の周辺です。J-peg が、ぼんやりとしていますが、真ん中にとおっているのが道路で、上が南になります。その日だけは、いつもと違う場所に、益山夫人の車が止まっているので、変だなと、考えました。

 この図の下の方、赤い色で、人間が漫画チックに描かれていますが、それが、私です。そして、その上の方に、黒い格子模様で、埋められていて、かつ、緑色のふちで彩られているのが、益山夫人の車で、その日だけは、そこに、止まっていました。普段の益山夫人は、この道路を使って、元町ユニオン(その鎌倉支店かな?)にまで買い物に行くので、さーっと通り過ぎて、そんな場所には止まっているはずはないのです。彼女は、セレブを、自認していて、近所づきあいを一切しませんでした。町内会にも入っていませんでした。原節子に似た美人で、インテリです。しかも、当時は、普段使い、とくに女性が乗るにしては、最高級車だった白の、セドリックハードトップツードアに、シェパードとご主人を乗せて、パーッと通り過ぎるので、その日の停車は、異常なことでした。

 私は小さい時から両親に腺病質だと思い込まされてきているので、とても、やせていて、しかも色が白いので、弱々しく見える人です。で、益山夫妻は、高をくくって、私にとんでもない嘘をついて、自分たちの悪事に加担をさせようとしました。しかも、そのためには、私の家の一部を奪うという形さえ取りました。だが、私は現代最高の頭脳を持っていますので、たちまちに夫妻の悪だくみを見抜いていしまいました。この大規模な詐欺事件(ただし、書類上は形が整っているので、犯罪には当たらないが、元横須賀市の水道山1200坪を、ただで、自分のものにしてしまった)は、横須賀市、法務局、財務局を巻き込んでいるものなので、私は、自己防衛のために、それらの役所に、内容証明を送りました。で、益山夫妻は、対・役所という意味で、それ以前は、エリートとして、君臨していたのに、その面目を失ったし、五年間は動けないことにもなったので、窮地に追い詰められ、なんと、私をひき殺そうとしたのです。

 だが、この日の車には、いつもとは違って、奥さんだけしか乗っていませんでした。シェパードも旦那さんも。だから、もしかしたら、それは、奥さん一人の出来心だったかもしれません。ただし、それが失敗した10時間後に、益山氏は急死します。それが、自殺なのか、脳溢血などの、循環器系の急病なのかは、私は、知りません。

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副題7、『私は五度の暗殺未遂にであって、ことごとく助かっているが、自助努力もあるし、天の助けもあると、思う』

 ただ、この暗殺が未遂に終わったのは、私は非常に勘がいい人間であって、いつもとは違う場所に、違う時間帯に、しかも絶対に停まることのない益山夫人の車が停まっていることに、違和感を感じたのです。それが潜在意識内で、逃げる準備を促してくれたのでしょう。上の図はラフなもので、わが家は60坪あるので、益山夫人の車は実際には、これ程、大きくはありませんが。

 この道は南に向かって昇る角度があるので、益山夫人が車を急発進させたときに、『あ、狙われている。坂を下る加速があるので、自分は死ぬ可能性がある』と、直感をしました。で、横っ飛びに逃げたのです。その時に逃げ込んだ場所が、上の図の真ん中の右側に、ピンク色の斜線で囲んである部分(くぼみ)です。

 益山夫人もばかではないです。もし、このくぼみにまで、車を突っ込んだら、意図的に殺害をしようとしたことがばれてしまいます。だけど、道路の真ん中で、轢き殺したら、過失致死で済むでしょう。それは、彼女も瞬間的に判断をして、ただ、さあーっと、左側を通り過ぎました。

 私はよく神様は存在すると言っています。この時もそれを強く感じました。もし、この道がまっすぐだったら、私は100%殺されていました。また、私の家は、下側(=北側)から見ると、右側(=西側)にあるので、そちらを選んだ方が近いので、私は半分より右側を歩いていました。もし左側を歩いていたら、突起しかないので、殺されていました。こういう偶然が重なったのも天意だと思っております。そして、自分が思っていたよりも運動神経が良かったのは、自助努力にあたるのか、天の助けなのかは知りません。ただ、父は戦前の神宮の陸上大会(今のユニヴァーシアードと、国体がミックスした様な大会)で、走り幅跳びの選手をしていたから、そういう血がぱっとよみがえったのかな?~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題9、『子供に申し訳なかったなあ。あのころ、私の子供たちは、ミスター J (おとなの方)にいじめられていたから』

 私はね。この章で、急に昔の話をしていますが、それは、ノーベル平和賞が憲法9条の会へ、下賜されるらしいと聞いて、そういう風になっていったわけです。それは、見事に、益山夫妻とか、渡辺幸子さんを支援する人たちの動きをグローバルに拡大した動きだからです。ノーベル賞と聞くと、格段に、スケール違う様に見えますが、根っこはすべて同じです。もし、ノーベル平和賞が、憲法9条に下るのだとしたら、それは、明瞭に私が書いている文章に対する復讐となりますね。で、そういう方向へ向かってしまったのですが、本当は、相変わらず、佐世保バラバラ殺人の高1少女のお母さんを問題としたいわけです。

 そのお母さんは東大卒です。で、仕事に目が向いていて、次子である彼女には愛情も与えておらず、注意の目も向いていなかったと推察しています。ところで、だからこそ、昔の話を思い出したのですが、この1979年に、私がICUへ学士入学をしたころ、うちの子供たちは、本当はひどく寂しい思いをしていたのでした。というのも J 家が、益山夫妻のお気に入りになったことを、力のよすがとして、なんと、私に復讐して来たのですが、その矛先は、子供の遊びに向かったのです。子供たちだけで遊んでいる場所だったのですが、みすたーJが支配する様になって、しかも、私の子供たちを排除してきたのでした。私は、この1970年の、五年ぐらい前は、子供の遊びにくっついて注意しまくっていましたが、すでに、小学生になった子供たちにはくっついてはいません。

 そこに、ミスターJは、キャッチボールを指導する人として乗り出してきたのです。なんとおぞましいことと思いますが、平気でやるのです。だけど、お子さんにお菓子の盗み癖があったのは、両親が駄目だったからですけれどね。愛していなかったのです。特にお母さんが。お父さんは、普通は女の子をかわいがるものですが、その家では、妻の、おしりに敷かれていて、言うなりだったのでしょう。1970年代から80年代にかけて、日本経済は右肩上がりの成長期で、常盤相互銀行(現在の新生銀行)だって、お給料は良かったと思いますよ。それが、お母さんが働きもしないで、幼稚園の月謝とか、お菓子代をケチっていたのです。

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副題10、『平木氏が、ミスターJとそっくり同じことをしているが、だれから教唆をされたのだろう』

 突然、雪ノ下の方へ戻ります。たった、20戸しかない小さな集落だと常々申し上げております。その中で、小さなお子さんのいる若いご夫婦って、本当に少ないのです。何分によらぬ、高齢化社会であって、中古を買って新しく参入してきた家の中でも、お子さんのある家は少ないのです。この地域が、車のつかえないちょっと、古臭い、インテリ好みの地域だから。

 でも、平木さんという、健康で、お上品な家族が引っ越してきて、まるでお人形の様にかわいい男の子二人を育てています。ここで、このご家族の名前を表記するのは、そこのお子さん自体に何の問題もないからです。だが、親(特にお父さんの方)が、何か悪いことを、ほかから、教唆されていて、恐ろしいことをやってこられるところがあるので、ここに名前を記載します。

 それは、上に書いた、ミスターJ と、そっくりな遊びです。父親が、主導するキャッチボールのことです。それを何と我が家の前でおやりになるのです。石段があるところだから、そういうところで、キャッチボールをすること自体が、危険なのに、おやりになる。ほんとうに、遊びが優先なら、いくらでも山の下に平らで安全な場所があります。

 非常に悪意ある行為でした。ただね、わが家の子供たちは、既に、40を超えていて、この家には、同居をしていません。だから、ミスターJ とは、違っていて、うちの子を排除するという要素はありません。もし、そういう要素まで、命令されていたら、平木さんも、そういう行動をとらなかったと思います。だが、全く透明で悪意がないとはとても言えないのでした。まったく、別の悪意が込められているのです。それは、アジサイ畑欺罔事件で、盗まれた我が家の土地を、泥棒したのではないと、言うことで、確定したいと願う、安野忠彦氏とか、前田祝一氏の意向を呈していると見えます。

 どちらが命令をしているのか? ただし、私は、この北久里浜の話をそれほど、詳しくはブログの世界で語っていませんね。ただ、小説の形でまとめたものはありますが、それは、表向きんは前田さんにも読めないし、安野氏にも読めないはずです。ただし、ハッキングの権利を与えられている井上ひさしとか、伊藤玄二郎が、読むことはあるでしょう。それとも、安野氏も前田氏も、そのアプリをすでに与えられているのですか?

 まさか、平木家が、その権利を与えられている。そんな汚い行為に加担をなさると、将来非常に悪いことがお子さんの身の上に起こりますよ。彼らは、本当に悪らつなこと、悪魔が、やる様なことを平気で、やってくる連中ですから。それから、これは、お父さんがいないウィークデイの話ですが、お母さんが、電話か何かで頼まれて、子供たちに、「前田さんの家に行きなさい」というのかしら? で、その前田家では、平木家のお子さん方に、「安野家に行きなさい」と、言うのかな? で、お子さん方は前田家に寄った後で、安野家の裏庭に入ります。そこは安野家の門を入って、しかも、急なはしごを使わないとは入れない(?)野菜畑ですが、

 そこに、平成の八墓村事件の直後、23日に何回も入って大騒ぎをして遊んでいました。ね。それから、私が交通事故に出会った、4月7日の直後、9日にも大騒ぎで遊んでいました。だからこそ、その二つの事件が、意図的に作り上げられたもので、前田家とか、安野家を助けるために、徳山の山間の、5人の老人は殺されたみたいです。保見は、やっていないでしょう。五人も殺しておいて、裁判が行われていません。へんですね。2013年の12月に、精神鑑定の結果、裁判に耐えられると発表をされたはずですが。

 恐ろしいことです。自分たちの礼儀知らずが原因で、私の土地が盗まれたのに、反対に、安野家は北側に20坪ぐらい新たに開墾をして、土地を作り上げ、前田家は、私が引っ越してくる前に、(どうも前の持ち主がやったことらしいのですが)私道部分を自宅の石垣を作って占有しています。反対に、私はほぼ、30年にわたって、自分の土地を使えず、しかも東北の角は、許可もしていないのに崖を崩されています。この理不尽さと汚さ。そういう汚いことに、大切なお子さん方を人身御供として差し出しているのですよ。一種の「道具として、どうぞ、使ってください」と言っているのと同じことですよ。恐ろしい。本当に恐ろしいです。

 本当に些細なことで、一気にことが逆転をすることがあります。若宮大路の桜並木が、2012年までは、普通だったのに、2013年に急に衰えました。八幡宮様は植え替えをなさるそうです。だけど、あまりに成長した木を植えると根付かない可能性もあるし、本当に難しいことです。平木さん、あなたがお子さんを提供したことさえ、その桜並木のダメージぶりに寄与しているのかもしれないのですよ。単純なことでも、正しいことでもないのですよ。どうして、何を聞かされているので、そういうことが平気でできるのかなあ?

 それから、一つの推察を加えさせてくださいませ。まさかと思うが、安野忠彦氏の引退前の勤務先って、新生銀行ではないでしょうね。ともかく、銀行ではないかなあと思っていましたが、もし、新生銀行だったら、見事にリングが完成しますから。ミステリーの謎解きが一気に前に進みます。鎌倉には新生銀行の支店があるし。新生銀行とはときわ相互銀行だけではない複数の銀行の、合併体らしいので、元っ長銀でも、元あおぞら銀行でもいいのですが。

 後刻、推敲やら、加筆をしてそのあとで、日付を入れ、署名も入れます。

なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、2510647です。 

 後注1、下のリンク先へ入ってから渡辺幸子さんの項目を探してくださいませ。

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