荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

今日の夕食

2016年03月08日 | 散文
暖かい日が続いて過ごしやすくなってきた郷里ですが、田舎暮らしが長くなっています。
東京にも家族がいます。
こちらの家族は便りがありません。
便りが無いのは忘れられる前兆です。
そろそろ帰京を考えて夕食のメニューを考えます。
冷凍室の在庫から選んだのはこれ!



先日の昼食でスパをヤキソバ扱いした挙げ句お箸で食べた反省から、ホントの中華定食風に。
この焼きそばも具がトレイに載っかっているタイプです。
従って、お皿を汚さなくて済みます。
本格炒め炒飯は前回美味しかった、さっぱり塩味で。
簡単便利で美味しい最強在庫整理ペアで行きます。
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脇屋義助公廟再訪

2016年03月08日 | 散文

久し振りに再訪しました。
前回帰省時にたまたま通り掛かり、好奇心に引かれて訪問した事で、郷土の歴史を知りました。
急いで吉川英治「私本太平記」を読みました。
前回は驚きと興奮で気持ちに余裕が無かったけど、今回はゆっくりと見学しました。
雑草を刈り取って随分こざっぱりしています。


廟堂のむこうに墓地があります。


脇屋義助に関する石碑越しに、彼の墓を見ています。


廟堂の裏に回ります。


南朝方の武将・忠臣、従三位脇屋義助の墓です。
多少古くなっていますがお花が活けられて、掃除されています。
今でも大切に供養されているようです。

彼は、兄・新田義貞等の有力武将が死んだ後、劣勢を四国から立て直すべく桜井海岸に上陸し、甥・大館氏明が守る世田山城へ向かう途中、国分寺で病死しました。

時代の勢いの前に彼が世田山で奮戦しても南朝は滅んだでしょうが、後村上天皇が最後の希望を託した武将でした。

その切り札が、到着後すぐに病死したのです。
出発前から病気だったと思います。
その忠義性と悲劇性もあって、ここに廟が造られているのでしょう。

脇屋義助の墓の向こうに、古い墓が見えます。

前回訪問時には気付きませんでした。

家来墓です。


(唐子山に在った国分城主小川土佐守祐忠の墓もあります。彼は関ケ原の戦いで西軍に付いて敗れ、その後藤堂高虎が今治城主となりました)

彼ら家来はどのようにして死んだのでしょう?
彼らは世田山城で死んだのではないと思います。
世田山合戦は重なる死体で地面が見えない程、多くの敵味方が死んだそうです。
その死体処理の際に、脇屋義助の家来を選別してここまで運ぶ事はちょっと考え難いです。

家来達は、脇屋義助を追って死んだのではないでしょうか?
それも殉死と言うより、南朝の切り札の死に己の未来を絶望し、自害したのではないでしょうか?

廟所の石段から小さな森が見えます。

彼らが死んだ、国分寺がある丘です。
世田山合戦は太平記第22巻に書かれているそうですが、まだ読んでいません。

私と入れ替わりに訪れた人が、説明板に読みいっていました。

ふるさとの午後の光景です。

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