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荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

廃村の部落―2

2016年03月07日 | 散文
ふるさとは谷あい毎に集落があって、それぞれに行事を行って来ました。

従って、一定の家数を下回ると行事ができなくなって、廃村が加速します。

この谷は随分前に人が住まなくなりました。

久し振りに訪ねて来ました。

こので唯一残っている家です。


庭の前の畑には、猪がミミズを捜して掘った跡があります。

車が走っている道路から200mも離れていません。

猪の檻があります。

初めて罠を仕掛けている所を見ました。
餌はサツマイモと伊予柑のようです。
周辺には一杯足跡があるのに、罠には掛からないようですね。

裏に回ってみます。

大きな百姓屋だったのですね。

家の裏の放置自動車の向こうにも畑があります。

ここにも足跡と掘り返した跡が一杯ありました。

人は住まなくなりましたが、すぐ近くの谷あいに建てた家から通って来て、相変わらず野菜を作っています。

でも、まるで猪の餌場のようです。
人が住まなくなると、こうなってしまうのですね。


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廃村の部落―1

2016年03月07日 | 散文
正面に世田山・笠松山を望む、江戸時代からある街道です。
左手を流れる大川に沿って、道が続いています。
道の両側に松並木があって、昼間でも薄暗い街道でした。
街道の右下に旧国道が走っています。

現在は松の木が伐採されて、明るいサイクリング道路になっています。

その一角にある廃車置き場脇の橋をひょいと渡ると、「菜切谷」と言うへの道があります。

へ通じる唯一の道路です。

入って行くと大きな池があります。

子供の頃によく釣りをした池です。
ここには、他の池にはいない雷魚がいました。
我々は「台湾ドジョウ」と教えられていました。


竹を切った手作りの竿では持て余す大きさでした。

戦中・戦後に食料にしていたものと思います。
ここには、やっぱり他にはいないウシガエルもいました。
我々は「食用蛙」と教えられていたので、そういう食料補充の池だったのでしょう。

池の反対側の丘には古墳があって、潜り込んで遊んでいました。

藪に覆われてしまったのでしょうか?

この道路の奥に7~8軒の民間がありました。


何よりここには、「乾燥場」が在った所です。
近在で煙草栽培を行っていた時期があって、栽培農家が当番制で、24時間火を絶やす事なく、収穫した煙草の葉を一定の温度で乾燥させてしいました。
この場所のように思います。

子供達は父親の傍で夏休みの宿題をしたり、仲間と将棋を指したり、釣りをしたり、西瓜を食べたりして過ごしたものです。
夜には明かりにつれられて飛んで来る、クワガタやかぶと虫や珍しい薄羽かげろうなど捕まえて遊びました。
それはそれは、楽しかった思い出が一杯詰まった場所です。

道を進むと立派な家と大きな納屋が見えますが、今ここに人は住んでいません。


この家の奥にもう2軒ありますが、何処にも人は住んでいません。






すぐに集落の突き当たりになります。




振り返ります。

一定の家数が無くなると、の行事が遂行できなくなります。
限界集落となって、離れて行かざるを得ません。

それにしては、家も畑も手入れが行き届いています。


彼らは別の場所に建てた家から毎日通って来て、家と畑を守っているのです。
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