既に、5月の末に真夏日になった東京です。深緑の遊歩道を往きます。この遊歩道は、旧都電線路跡です。遊歩道の所々に、真ん中に緑地スペースが在ります。おそらく、都電の停留場跡ではないかと思っています。
左右の線路共通の停留場だったと納得できる立地と面積です。
そう思うと駅舎に見えます。木漏れ日が涼しそうです。
さて、遊歩道を往きます。
ここも停留場跡でしょうか?
梅雨前の真夏日です。
ここにモニュメントが有ります。赤いコーンで囲まれています。
まあ工事中でも、これを見るのに支障はありません。
説明プレートが有ります。「このモニュメントは、パリのアンヴァリットに保存されている大砲をモデルにしたものです。実際の火砲は、長さ約3メートルです。」
説明板も有ります。当時の地図と、この大砲の所縁です。「長州藩大砲鋳造城跡(南砂2-3付近)(筆者談∶現在のUR南砂住宅です。すぐ近くです) パリのアンヴァリット(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。
十八封度砲 嘉永七歳次甲寅季春 於江都葛飾別墅鋳造(じゅうはちポンドほう かえいしちさいじこういんきしゅんこうとうかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)『江戸切絵図』を見ると、現在の南砂二ー三付近に長州藩主松平大膳大夫(筆者談∶幕末になると主だった藩主は殆ど徳川家の親戚になって松平を名乗ったのですね。屋敷は地図の中央下、すぐ海だったのですね)の屋敷があったことがわかります。『葛飾別墅』とは、この屋敷をさしています。
長州藩では、嘉永六(1853)年十二月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳造家を江戸に呼び寄せました。翌七(安政元)年正月、幕府の許可を得て、佐久間象山指導のもと、砂町の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。 当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元(1864)年イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。
パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。 平成五年三月 江東区教育委員会 」分かりやすい文章でしたが、ちょとテーマから脱線(都電だけに、)しました。都電が走っていた頃より遥か昔の話です。
再び旧都電線路跡遊歩道を往きます。
都電はやがて現在の永代通りを西に走り、富岡八幡宮の前を通って都心に向かいました。
急に暑くなると、日向に人が居ません。ポツンと自転車が往きます。