窓が開いて駅弁が買えた時代を記憶する者には窓が開かず車内販売となった今の列車の旅は少し味気なく感じられる。それでも窓から移りゆく外の風景が眺められれば、そこはかとない旅情を感じる。
見慣れた東海道沿線でも、季節により目に映る景色の印象は変わり、何時見ても飽きることはない。今では窓際に新たなあまり芳しくない意味が含まれるようになったが、私は窓際の席が好きだ。飛行機でさえ窓際の席だとしめたと思う。トイレに行く関係もあるのか、全ての人が窓際が好きというわけではないようで、女房などはいつも窓際を譲ってくれる、有難い。
列車の窓から移りゆく風景を眺めていると、網膜に映るのは外の風景だけではなく、呼び覚まされた内なる風景もおぼろげに鮮明に浮かび上がってくる。あの時と特定できるものもあるのだが、何時の事だかどこの光景かわからぬままに、微かな余韻を残しながら流れてゆくものもある。先日、揖斐川を渡り長良川を渡り、長良川の静かな水面を見送っていたら、会ったこともない平田 靫負の後ろ姿が見えたような気がして胸を突かれた。
こうした感覚はどこか風狂の才に恵まれた?私固有のものかもしれないが、同種の人もおられるだろう。窓際族と呼ばれる人達もこうした感覚をお持ちかもしれない。
旅は窓際に限ると思っている。