作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

津山(一)

2010年02月12日 | 日記・紀行

 

津山(一)

所用があって津山まで出張した。前回の時は、京都から岡山駅までは新幹線で、そこから津山線に乗り換えて行った。しかし、今回は中国道を走るJR西日本バスの路線バスに、津山エクスプレス京都号のあることを知り、それを利用した。交通費も安く済んだ。

津山城跡が鶴山公園になっていることを津山駅前の案内所で教えられ、時間に余裕もあったので、そこを訪れることにする。こぬか雨の時折降る中を歩いて行く。先日ほどではないけれどまだ寒い。

やがて城垣が正面に見えたが、その通りの脇に、キリスト教図書館と歴史民俗館の建物があった。その真向かいには自然博物館もあった。歴史民俗館には、森本慶三記念館の表札が掲げられてあった。

森本慶三が内村鑑三の弟子筋の人で、津山の人であることは知っていた。だから思いがけないところで出会ったという感じだった。同じく内村鑑三の弟子で、信州で教育に従事した井口喜源冶のいることも知っていた。ただ、それでも私には、森本慶三も井口喜源冶の二人の区別もよくわからないくらいの知識しかなかった。

記念館の向かいにある自然博物館で入場券を買うようにという張り紙があったので、きびすを返してその窓口まで行き、入場券を買おうとすると、売り場に座っていた男の人が「自然博物館は入場されませんか」と言う。時間も多少に余裕もあったこともあり、ついでに見てみようかという気になって買う。

森本慶三記念館には、内村鑑三ら無教会のキリスト者たちの刊行した多くの雑誌が陳列されていた。わが国おけるキリスト教の受容の歴史と、その特殊性の存在がここにも、一つの客観的な事実として確かめられる。

この記念館には、そのほかにも江戸末期や明治期の商人の暮らしの様子を示すさまざまな民俗品が展示されていた。江戸末期や明治初期の文化の一端に触れることができる。切支丹禁令の高札の実物も、皮肉にもここで見ることができる。この一枚の高札の裏には、さまざまの悲劇が存在したにちがいないのである。

森本慶三氏は津山の商人の家系の出身の人らしく、実家の商家の品々が並べられていた。森本慶三は、教育や実業における貢献によって、初代の津山名誉市民にも選ばれている。知識に断片として残っていた礼拝に使われたオルガンが、かっての小さな伝道の歴史の跡を留めるように、説教台に並んでいた。明治期の日本のキリスト教の、地方の小都市への伝道の、それら小さな足跡をゆっくりと時間を掛けて眺めた。

自然博物館には、それほど期待してもいなかったが、実際に展示されている鳥類、ほ乳類動物の剥製、化石、鉱物など蝶、昆虫など多様多彩なコレクションを見て、その充実ぶりに、地球上のさまざまな生物の多様さ、その豊かさにあらためて感動させられる。

それはおのずからに、神の御手になる創造の、天地自然の壮大さ、人体の構造の神秘などに驚嘆せざるをえないようなものである。自然に対する、神の創造物に対する、こうした展示に見られる限りない知的好奇心と博学は、当然のことながら森本慶三のキリスト教信仰とその思想の帰結として生まれたものにちがいない。

                        

 

 

 

コメント (2)
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