存在・概念・真理・国家
どんな事物にもその「あるべき姿」ということが、それが自覚されているか否かは別にして、つねに考えられている。人間についても、バラの花についても、また、料理に使われるレモンなどについても、さらには、国家についてもおなじことが言える。
ある事物がその事物であり得ているかどうかについての判断は、人はつねにその事物の「あるべき姿」と比較しながら行っているといえる。だから私たちは「黄色くもなく」「酸っぱくもないもの」をもはやレモンとは呼ばないのである。また、もしその人間が、他者の所有品を盗んでばかりいたり、殺人行為を何らの道徳心ももたずに実行したりする人間であれば、その人間に対して「人でなし」と呼ぶのである。だから、その事物についての「あるべき姿」を頭の中に、その人の所有する観念の中にもっていないとすれば、価値判断も善悪の判断もできないと言うことになる。
個別具体的な赤い薔薇の花を指さして、あの「薔薇の花は赤い」というとき、その人は頭の中に「赤色」の「概念」と現実に目の前にある「薔薇の花の色彩」とを比較して判断している。また、「大輪の花を咲かせている」というときは、花の大小についての「概念」を基準として、その個別具体的なバラの花を見て判断しているということになる。
さらに「赤らしい赤」とか、「男らしい男」などと言うとき、その人は現実の男性や色彩の赤を、その人間が頭の中に所有する典型的で理想的な男性像や赤と、つまり「男性」や「赤」の「概念」と比較して判断しているのだ。私たちが日常にふだんに下す判断中には質的な判断、量的な判断などの本質についての判断のほかに、こうした概念の判断がある。
そして、個別具体的な事物が、人が一般にもっているその事物の「概念」と実際にはかならずしも一致しないということは多々あるものである。その時に人は、その事物ついて「おかしい」とか「変だ」とか判断するのだ。
ある国の国民が他国の軍隊や政府の謀略によって誘拐なり拉致などされて行ったとき、そして誘拐された国民の所属する国家が、その被害にあった国民を誘拐なり拉致から救い出すこともできず、救い出そうともしないとき、その国の国家主権が侵害されているとか、その国はおかしいとか、まともな国家ではない、とかいうのである。このとき、人々が「まともな国家」といった言い方で表している事柄を、哲学の用語では「国家の概念」というのである。
もちろん、にもかかわらず、そうした国家について、とくに「異常」とも「おかしい」とも感じも考えもしない人々、国民もいるものである。その時、「まともな国家概念」をもつ人間からは、判断能力が「低い」と評されたりする。あるいはまたそれを承認できないがゆえに、事物の価値判断をめぐって論争も起きたりするのである。たしかにイヌなどには、嗅覚や視覚については、人間と比較しても何十倍となく優れた感覚器官を持っているかもしれないが、国家や芸術品についての価値判断能力はない。その判断能力の差異は、概念的に判断する能力の差異による。
そして、なんらかの事物が、「まともでない」とか「おかしい」とか、「あるべき姿に一致していない」とかいう判断が求められるのは、その事物が何らかの対象や事件に出会うことによって、その事物の姿が対象や事件に映し出されることによってである。その事物の本質や概念が明らかにされるのは、そうした実験や経験によってである。もし、そうした現象がなければ、その事物の本質や概念も明らかにならない。その意味では、北朝鮮の行った拉致行為やオーム真理教事件などは、日本国民に国家や社会や教育などの現実の異常さを教える契機になっているのである。異常や特異さに気づくのは、その「あるべき姿」、「概念」を自覚することによってである。
現実の具体的な事物の姿、その実際の存在が、その事物の「概念」に一致しているとき、その事物は理想的な状態にあるのであり、真理にあるというのである。ヘーゲルの真理観とはそのようなものであったし、私たちもこうした真理観を継承している。だから、何よりも事物の現実の姿を理解し把握し判断するためには、その事物の概念が明らかにされていなければならないのである。概念論の決定的な重要さの所以である。しかし、このことについて論及してきた者はこれまで誰もいなかった。「真理」などを追求するという文化的な伝統も風土ももともとない民族や国民には、貧弱で虚ろな概念論しか持ちえないからである。宗教的な文化的な形而上学の干からびてしまった戦後民主主義の日本社会についてはとくにその傾向は著しいといえる。
日本国憲法は、果たして日本国をして「国家」たらしめているか、国家の概念があらためて問われなければならない。それが問われ解決されることなくして、多くの諸問題について根本的な解決も得られない。そういう時代の状況に来ているといえる。