概念と種子
この論考が、「概念の概念」について研究することを根本的な目的にしていることは言うまでもありませんが、これまでも、「概念」については、その本質を「種子」との類比でたびたび説明してきたところです。一種のアナロジーですが、「概念」が「観念的な種子」でもあるということです。(もちろん、アナロジーによって説明することは哲学することではありませんが。)
しかし、こうした観点から「概念」について説明しているのは、私の知るかぎり大学のいわゆる講壇哲学者にも、在野の哲学者にもいないと思います。従来の概念理解の典型は、「概念」を「事物の何らかの普遍性を反映した観念形成物である」(ヘーゲル用語事典)とするといった理解の仕方です。一般にはそうした抽象的な単なる形式論理学的なレベルの理解にとどまっていると思います。初期の青年マルクスの概念理解もそうしたものでした。
また古在由重氏など唯物論者らの編纂になる「岩波哲学小辞典」などにおける「概念」の項目についての説明も、ほとんどこのレベルの理解にとどまっていて、ヘーゲルの概念論などは無視されているか、無理解のままにとどまっています。
そして実際にもまた多くの人がこのような「概念」の「常識的」な理解にとどまって、ヘーゲルの「概念論」についての本質的な、あるいは概念的な理解にまで進もうとせず、その豊かな富、その本質的な意義を理解し継承し発展させようとしてきた哲学者は誰もいなかったように思います。
「精神」の客観的な実在を認められない「唯物論者」は、事物に内在する主体的な、能動的な運動、発展の原理としての「概念」の客観的な実在を認めることも洞察することもできませんでした。それを認めることは「概念」を神秘化するものとして批判されてきました。その結果として、ヘーゲル哲学の「概念論」のもつ科学研究における豊かな富、貴重な遺産への洞察の道が閉ざされてしまったのではないでしょうか。
ヘーゲルのいう「科学的に」(Wissenshaftlich)に「事物」を理解するということは、その事物を概念から理解するということですのに、そうした一般の浅薄な概念理解のために、真実に事物を「科学的」に研究するということの方法論を理解し活用する道が閉ざされてしまうことになったといえます。
事物を概念から理解するということはどういうことか、もちろん、その見本は言うまでもなく、ヘーゲル自身がすでに実行して見せています。たとえば、国家の概念については、彼の「法の哲学」が国家について「概念的に理解」するということの具体的な事例ですし、彼の「論理学」は「概念」について概念的に理解することの見本になっています。
さらに国家についていえば、概念としての「自由な意思」がはじめの抽象的で普遍的な段階から、「特殊」な段階をへて、さらに「個別」の具体的な段階へと進展し発展してゆくという、その「国家の概念」の論理を明らかにすることによって、国家を科学的に理解すること、「概念的に理解する」ということがどういうことであるかを示す見本になっています。事物を「科学的に理解する」ということは、ヘーゲルの哲学的な意味では、そうしたことでした。
ですから、「種子」を具体的で個別的な生命の概念として、その具体的な普遍として理解することは、ヘーゲルの概念観を大きく誤って理解することにならないと思います。
さらに、私たちの「概念論」を深め、科学の精神と方法を深めるための議論を期待したいものです。