作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

東三本木界隈――京都の町並み紀行(1)

2010年12月13日 | 日記・紀行

 

 

東三本木界隈――京都の町並み紀行(1)

ふたたび府庁に用事があってゆく。前回は自転車を使って行ったが、今日は雨が降っていたこともあり、電車を利用して行った。前は御所の中を自転車で少し散策したが、今日は小雨の降る中を帰途、南に下がって裁判所のあたりを歩いた。

さすがに京都で少し歩くだけで、至る所に歴史的な旧跡がみられる。この日半日、京都の市街地散策に辿った後を記録しておきたい。雨は降っていたが、霧雨か小降りで散策に支障はなかった。荒神橋などと眺める鴨川も小雨に煙っていて、むしろ風情がある。

この日は用事を済ませるとまっすぐに南に下がって丸太町通りまで出て東に折れた。そして烏丸通りを横切り、御所の南端の石垣を眺めながら、柳馬場あたりを南に下りた。御所南小学校があり、やがて電柱に晴明町という表示があった。中世の陰陽家、阿部の清明と何か縁でもある土地なのだろうか。

そして二条通をさらに東に向かうと比較的に広い南北に通じる寺町通りに出る。そこをふたたび北へときびすを返し、
下御霊神社の裏手に出たところで、ふたたび東に折れてはじめの通りを、また北に向かった。これといった目的もなく、行き当たりばったりの道程である。

ふたたび丸太町通りに戻る。それを横断してさらに北に向かう。途中に松陰町という町名の表示があった。吉田松陰などと縁があるのか、たまたま偶然か、いずれにしても、先の太平洋戦争で大きな空襲を免れた京都には、その多くの町並みには歴史の由来を想像させる町名が残されている。また、江戸以来の昔の町並みの風情が至る所に残されている。

それに対して、神戸や大阪などにおいては、空襲のために残念なことにそのごく一部を除いて戦前の風情を実感できる土地が残されていない。戦後世代の、その人間の多くに歴史的な刻印の影を帯びた人間の少ないのもその所為でもあるだろう。

とうとう荒神口通りまで来てしまう。学生時代にこのあたりにもよく来たことはあるが、その当時とどう変わってしまったのか、このあたりの昔の記憶がはっきりと残されていないから比較のしようもない。交差点を横切って鴨川に出る一つ手前の道を南に下がる。

法務局の前を過ぎ、円通寺の横の細い道を抜けて、幼稚園のフェンスを見ながらその先の向こうに見える鴨川の岸辺に出た。途中買い物帰りらしい一人の白人の青年に出会う。お互いに傘を差していたのに、すれ違いざま彼が先に遠慮して傘を傾けた拍子にフェンスに引っかけてしまった。気の毒に思うけれどどうしようもない。

鴨川縁でつれづれなるまま小雨に煙る上流をしばらく眺めていた。が、これと言った感慨もなくもと来た道を引き返す。保育園の前の道をまっすぐに南に向かう。どのあたりで眺めたのか忘れてしまったが、途中に標示板があって、そこに書かれてあったことの記憶によれば、このあたりは三本木と言い、昔は花街のあった場所らしい。

明治維新の志士たちが、このあたりで、幕府の捕り手の眼を逃れて多くの密会を持ったという。明治の元勲となった木戸孝允、桂小五郎が妻松子幾松と知り合ったのもこのあたりだという。幕末の志士たちの苦難の物語は、福山雅治が主演した今年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」でも明らかで、松陰も坂本龍馬も若くして死んだ。神許されるなら、京都におけるこうした幕末維新の志士たちの群像と思想を描いてみたいと思う。

ふたたび丸太町通りを横切る。帰路に就くためにまっすぐに進む。前方右手に何か大きなパチンコ店のようなものが見えた。トイレを借りるためにゆくと、そこは、DE・MA・・とか何かよくわからない大きなゲームセンターができていた。

こうして京都の裏町を歩いていても、どこか「日本の衰退」の予兆というものを感じる。いや、もはや紛れもなく衰退期に入っていて、しかも、この状況にくさびを打ち込むことのできる優れた指導者は、英雄は、現在のところどこを見回しても、どこにも誰もいないように見える。

質実剛健の有力な新規企業の輩出など見る影もなく、ただパチンコやゲームセンターなど派手で「虚飾の産業?」だけが町中のアチコチで隆盛を極めているという印象がある。衰退してゆく社会とはこういうものなのか。幸か不幸か一生の時間に、青年期には高度成長期の謳歌を迎え、晩年に近くなって国家と社会も没落を迎えるのか、栄華と衰退は万物の理でもある。

隣国中国の台頭に、菅首相やその官房長官に見るまでもなく、戦後民主主義の教育に育った
国民は国家に対する自信も誇りも失いつつあるように見える。その根元である少子高齢化は誰しもが予想できたことであるのに、有効な対策を講じることのできる指導者も一人として出てこなかった。

大きな駐車場を持ったゲームセンター「DE・MA・・」のその昔に何があったのかも思い出せない。瀟洒なマンションやレジデンスの建ち並ぶ通りを歩く。軒先に囲碁の碁盤が並べられてある店などのあるのも京都らしい。今は大きな
料理旅館「お宿いしちょう」とになっているところは、明治の元勲である木戸孝允の旧邸跡という。昔を偲ばせるのはただ立っている標識のみである。

その南隣には銅駝美術工芸高校があり、その敷地内にこの高校の由来が記されていた。明治維新のはじめ、西欧列強に追いつき追い抜くことを至上命題としていた新政府の指導者たちが、日本の産業育成のために、この場所に舎密局をつくって西洋から理工学者を呼んで化学や理工学を若者たちに学ばせた。そこで学んだ若者に島津源蔵ら島津製作所の創設者などもいたらしい。

さらに南に歩を進めると、ホテル・フジタの建物が見えた。昔、大学でアルバイトをしていた学生時代に、カナダのバンクーバーから空手の修行に来たと言っていたドナルド・フォスター君と、このホテルのロビーで一時を過ごした記憶がある。

ドン君から贈られた肖像写真は今も探せばあると思う。髭を蓄えた長いパーマ髪の北欧バイキングの子孫を偲ばせる背の高い青年だった。当時はベトナム反戦の余韻もまだ残っていた。たしか緑色の眼をしていた。気が合ったのか友だちになって、たまたま学校の近くにあった彼の下宿で、オーストラリアやニューヨーク、スェーデンなどから京都に来ていた多くの青年たちとも知り合った。

すでに半世紀近くの時間の流れの後に、今も変わらずここに建つこのホテルを眺めている。青年の頃の遠い記憶の一駒だけは頭に残されているけれど、すぐに変わり果てる人間とは異なり、自然や町並みの変貌は緩やかなものである。木戸孝允らの歴史の偉人とは異なり我々凡人の青春の日々などは、茫々たる歴史の大河に飲み込まれて、忘却の淵深く沈んでゆくのみだ。

 

  Yves Montand - Les Feuilles Mortes

 

 

 


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