本日の池田信夫氏のブログに「放射能という「国体」」と題する記事がありました。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51821652.html
そのなかで池田氏は丸山眞男の考えを引用しながら、かって戦前の国民の間に憲法学者、美濃部達吉の「天皇機関説」批判が「空気のように目に見えない雰囲気とし て一つの思想的な強制力をもつ」ようになって、日本の国政の動向を呪縛したことがあった。そして、相変わらず現在もなお「原発ゼロ」「放射能のリスクは特別だ」と主張する人々が官邸前にデモを繰り出すことによって、日本社会の「空気」を支配し、それによって産業の根本であるエネルギー政策を歪めていると批判されておられる。
たしかに、菅直人前首相が何らの法的な根拠もなく、浜岡原発を停止させたように、「空気」にしたがって政策決定を行うことは、良い場合もあれば悪い場合もあるから、一律的には判断できないかもしれない。ただ、統治の客観性を失うという重大な過失があったのは確かだ。
政治が国民の「空気」によって左右されるというのは、根本的には国家のあり方として決して健全であるとは言えない。その原因を池田氏は文化としての日本の「空気」に求められておられるようだけれども、その観点からだけの批判ではまだ不十分だと思った。
それで、私の感想を池田氏の記事にコメントを送らせていただいたが、本日の記事としてもここに記録しておいた。
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天皇機関説事件
〔2012/11/05 16:38〕
穂積八束や上杉慎吉らが「天皇主権説」の上に立って美濃部達吉の「天皇機関説」を批判したこと自体は学問的論争として認められるべきです。
「天皇機関説」そのものにも国家を「法人」として捉えるなど「天皇主権説」からの批判を許す弱点もあったと思います。
しかし、いずれにしても根本的な過失は、蓑田胸喜ら狂信的右翼の俗物が、権力を笠に着て、美濃部の著書を禁書にし、また、「不敬罪」などの権力乱用で、言論や学問の自由を抑圧したことにあります。
さらに、これらの事件の背景には、当時の明治の日本社会に「正しい立憲君主制」の法意識とその法制が憲法学界のみならず、一般国民の間にも浸透し、実現していなかったことにあると思います。
池田先生は、丸山眞男の思想に影響されてしばしば「空気」の概念で、日本国の文化的「欠陥」を指摘されます。
しかし、前にも指摘したように、「空気」のような曖昧な概念では、日本国の文化的、法制的欠陥を改善してゆくための理論を構成できないでしょう。
日本の文化的な伝統的な「空気」のせいにするのではなく、「立憲君主主義」としての明治憲法(大日本帝国憲法)の法的国家体制の欠陥と不完全を指摘しなければならないと思います。
「空気」によって国政が左右されるのも、根本において、我が国における「法治国家」として法体系の不備と、政治家や知識人、国民大衆の「法の支配」についての文化と意識の未成熟にその理由を求めるべきだと思います。
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