作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

きれいな秋空、宵の明星

2005年10月06日 | 日記・紀行

 

きれいな秋空、宵の明星

昨日降った雨も上がり、今日は美しい秋空だった。宵闇も早く訪れるようになった。夕刻に紺青から漆黒へ次第に移る空の中に宵の明星、金星が輝く。

NHKテレビでブラジル移民を主人公にした「ハルとナツ」というドラマを見る。戦後の日本人と戦前の日本人の違いがよく分かる。日本が太平洋戦争の敗北によって何を得、何を失ったかのか。ブラジルや韓国に古き日本の良さがよく保存されている。

私はそれは家族だと思う。敗戦の結果として、民法を改正(悪?)することが日程にのぼせられた。そのとき、「進歩的」な憲法学者宮沢俊義氏や民法学者我妻栄氏らが戦前の家長制度を廃止することを主張したのに対して、刑法学者の牧野英一氏らは、家族という日本の良き美風を破壊することになるとして、猛烈に反対した。

しかし、アメリカの後ろ盾もあり、結局は民法を改正して、アメリカの夫婦単位の社会構成に日本は倣うことになった。そのために、戦後の日本は「マイホーム」などが風靡することになったが、もともとキリスト教の伝統も裏付けもないまま、戦前の家族制度を廃棄した日本の家族がどれほどが惨めなものになっているか、しっかりした大家族などの背景を持たなくなった日本人がどれほど変質したかを、認識するものはほとんどいないのではないか。最近に頻発する子供の虐待など、アメリカの支援による「民法改正」の「成果」なのではないか。日本人の人間の質が戦前とは変わってしまったのだ。

もちろん、戦後の改革を全面否定はしない。しかし、日本国憲法の哲学的思想的な浅薄さは文字通り、戦後の日本社会として結実している。もちろん大衆はそんな問題意識のかけらも共有することはないだろうが。

いづれ憲法も改正されるだろう。その時には、敗戦を契機とする戦後の改革が、その功罪両面が、より長い歴史的な観点から、根本から今一度検証される必要がある。特に、せめて、まず理論的にだけでも、戦後の民法改正の功罪を──特に家族制度における──検証する必要があると思う。明治の優れた法律家、牧野英一氏らの反対を軽く考えるべきではない。宮沢氏たちのいわゆる改革派の歴史的な意義とその限界も、戦後六十年還暦を迎えてあらためて検証しなおす必要がある。

 今日の日本が軍事的に、文化的に半植民地の情況に置かれていることを、ほとんどの日本人は自覚してない。個人の財産や生命すら犠牲にして、国家の独立を維持しなければならないという義務感を戦後の日本人は共有せず、自国の独立の保障を他国の軍備に依存する自らの国家を恥じることもない。

奥平康弘氏や小林直樹氏ら、東大系の憲法学者たちは、日本国憲法の「戦争放棄」条項を後生大事に主張しているが、その結果として、自国の軍隊を保持することによって国家の独立を守るという最高の栄誉を国民に忘れさせ、主権を担うことの困難さを国民に育することをこれらの東大教授は放棄し、そのために国民の倫理的な健全さをそこない、国民の腐敗を助長することになっている。アメリカ駐留軍がいなくなれば誰が日本を守るのだ。

北朝鮮よる拉致という重大な国家主権の侵害も、「憲法第九条」の論理的な帰結である。このこともまた彼らは認めようとはしないだろう。横田めぐみさんの涙の責任を、これらの「進歩派」憲法学者や土井高子氏や辻元清美氏ら「狂信的」平和主義者が自覚することがあるのか。

早く憲法を改正して、国防軍を保持し、真の独立を回復して、国民の倫理的な腐敗を改革し、そして国家主権をより完全なものにして国民と国土を防衛しなければならない。

これらの問題については、また、別個に考える機会があると思う。

詩篇第十六篇注解を「海と空」に載せる。恐らく去年に書いたもの。日付は記録していない。

 

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