昨日書きかけた「私の哲学史(五)マルクス・エンゲルス」をまとめる。この「私の哲学史」の目的は、私の青年時代から、良かれ悪しかれ、事実として係わってきた思想や哲学を今一度検証して、私にとってそれらがどのような意味を持っているのか、それを確認することである。
マルクス・エンゲルスは、私の大学時代に知った思想家である。私にとっては、彼らが本質的な意義を持つことのなかったことは明らかだ。いわゆる「プロレタリア独裁」の歴史的な意義を肯定することもない。自然科学者、社会科学者としての側面にマルクス・エンゲルスの意義を認めているだけである。
今日、衆議院で「郵政民営化法案」が五票差で可決された。これで小泉首相は永年にわたって彼が政治的な使命と信じてきたことを果たしたことになる。私もそれは条件付で評価している。
それにしても、野党の民主党が、明確な対案も無く反対しているのには、自民党の郵政族の労働組合版を見せ付けられて、失望させられる。
日本の政界も一刻も早く、理念によって、すなわち、この市民社会は基本的に資本家階級と労働者階級に分かれているのだから、資本家階級の立場、可能な限り経営者の自由の理念を追求する「自由党」と、労働者、勤労者の利益を代弁して、雇用や福祉など民主主義の理念を追求する「民主党」の二つの党派に分かれて、この二大政党で交代に日本の政治を運営する形態が望ましいのである。
今日の自民党に見られるように、同じ党内にありながら同一の理念で結束もできず、ただ政権のうまみだけでつるんでいるような状況から早く潔く脱却すべきである。現在の「情実的」自民党政治家は、上に述べたいずれの立場に立って自分が政治活動をするのか、その政治的立場、理念をはっきりさせ、それに基づいて袂を分かち、また、野党の民主党の政治家たちも巻き込んで、あらためて二つの党派に再編されるべきなのである。
そうして、拠って立つ理念の明白な政党に所属して、合理的な政治活動に励むべきである。現在の日本の政治家たちのレベルはこの程度の政治も実現できないでいる。日本国民も政治家たちをそこへ指導することもできない。国民は政治家と役人を、まだコントロールできないでいる。これが、日本人の民族としての政治的水準の現実に他ならない。笑うべきか泣くべきか。