作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

軽蔑すべき政治家

2005年08月05日 | 日記・紀行
  

郵政民営化問題で、政局までも緊迫化している。小泉改革路線については、私はかねてから支持を表明してきた。小泉首相の改革が本物に近づくほど、自民党が分裂がらみになることも指摘しておいたところである。郵政民営化法案の通過が参議院でこれほど反対が強いということは、逆に、参議院の議員たちに、それだけ特定の利益団体に癒着した族議員が多いことを証明している。

 

昔は参議院は「良識の府」とか何とか言って、少なくとも、特殊利益の追求という観点を離れて、国民全体の利益を優先的に考える議員が少なくともいた。今日では、参議院議員の多くは、天下り官僚の官僚益と利益団体の代弁者、擁護者で占められている。このような参議院の議員連中の反対のために、国政の停滞を招くのは、きわめて、国家的損失が大きいと言わなければならない。

 

次回の憲法改正においては、参議院の廃止を国家の切実なテーマとして、国民の声として実現しなければならない。参議院議員たちは自分たちの利益が損なわれるとして猛烈に反対するだろうが。

 

郵政解散を契機に、国家国民の利益を優先的に考える能力のない族議員は、この際全員落選させるべきである。郵政法案が可決されなかったときには、小泉首相が内閣を解散して、国民の信を改めて問うのは正しい選択である。郵政解散は、議員の質を選別するよい踏絵になる。

 

「国政の停滞」を理由に、解散の反対に走り回っている森元首相などは、国家の将来のことなど何一つ真剣に考えてはいない。権力の座から転げ落ちることが、泣きたいほどつらいだけである。実際、日本新党の細川首相の実現で自民党が下野せざるを得なくなったとき、泣いていたのは彼、当時幹事長だった森喜朗元首相だった。

 

国家や社会のあり方について理念を持たず、またそれに確信がなく、その実現にまい進しない政治家、自己の保身と一部の利益団体の代弁のみに汲々とする政治家は軽蔑すべき政治家である。

 

それに、自己の政治信条を派閥の後ろ盾なくして独立して主張し得ずに、自ら命を絶った議員もいたが、こういう政治家もまた、最も軽蔑すべき政治家であり、このような政治家を選出した選挙民も、また軽蔑されるべきである。

 

二十一世紀の日本の政治家は、それぞれの政治理念を、政治思想を明確に描き、その理念、その思想の実現にのみ献身すべきである。料亭政治家や族議員などは徹底的に軽蔑されて、政治という「高貴な世界」には恥ずかしくて顔も出せないようになるべきなのである。

 

しかし、二十一世紀も日本の政治は到底この域にも達しないだろう。政治を行うのもやはり人間である。人間が変わらない限り、政治も変わらない。そして、こうした政治家が出てくるのも国民の中からであり、彼らを送り出すのも国民である。この国民あって、この政治がある。多少なりとも尊敬すべき政治家の手で、日本の政治が担われるのは、百年河清を俟つが如きものなのかもしれない。

 

いずれにせよ、この際、郵政民営化法案が否決されて、小泉首相が衆議院の解散に踏み切ることも、あながち悪くはない選択であると考えている。

 

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暑い日─青田からの風

2005年08月04日 | 日記・紀行

 

梅雨も開けて晴れ間が続く。自転車で散歩に出る。田んぼからさわやかな青い稲穂の香り含んだ風が吹いてくる。宇の山から灰方へ。このあたりにはまだ青田がかなり残っている。小塩山に夕日が沈もうとしている。善峰の方に行くか、大原野の方へ行くか。夏の夕暮れは遅い。

 

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ヨハネ書を読む

2005年08月02日 | 日記・紀行

 

早いもので、すでに八月に入った。今日は二日。久しぶりに聖書を読む。最近は、哲学書やハッチントンの『文明の衝突』や田中直毅の『市場と政府』などを読んでいて、聖書そのものから少し離れていた。聖書はできうる限り、寸暇を惜しんで毎日読む必要があると、改めて思った。詩篇については注解書を書きかけたまま中断している。

四つの福音書の中ではヨハネ書を最も愛読している。他の福音書と比較して、特にどこが気に入っているのか説明するのは難しい。読んだのは20章のイエスの復活の場面である。

復活については、私が高校生のころに聖書を読みはじめたときから、今日に至るまで、常に気になっていたところである。私は、この復活の問題や、処女受胎などの問題にについては、まだ思想的に決着はつけてはいないと言える。正直言ってよくわからないのである。しかし、にもかかわらず、聖書そのものに対する興味と関心は聖書と出会って三十年以上が経過したにもかかわらず、今日まで失っていない。と言うことは、私が聖書を読む上で、復活やその他のいわゆる「奇跡的な事項」は、私が聖書を読みつづける上で、本質的なことでなかった事を証明しているのかも知れない。

 

復活や処女受胎の話などはよく理解できなかったが、それは、聖書を興味を持って読みつづけることの障害には必ずしもならなかった。

ただ、現在の私の立場は、復活などについての聖書の教義については、ペテロやパウロやヨハネなどの使徒たちが信じたのと同じ信仰が、私にも保たれることを祈るのみである。その意味では、聖書の記述は、すべて、叙述そのままに真実として受け入れる信仰を持てるように祈っている。

その一方で、復活などが実際にあったかなかったか、と言った神学論争には係わりたくないとも思っている。

ヨハネ書第十九章には、イエスの十字架上での死が描写されている。十字架の上で息絶えたイエスのわき腹を、兵士が槍で刺すと、血と水が流れ出たと書かれてある。そして、アリマタヤのヨゼフと言う人が、ピラトに願い出て、イエスの亡き骸を引き取り、そして、香油とともに布にくるんで、新しい墓にとにかく納めておいた。

ところが、第二十章では、マグダラのマリアと言う女性が、イエスを葬ったはずの墓に来てみると、イエスの亡き骸はすでにそこにはなかった。そして、復活したイエスが、弟子たちに次々と自分の御姿を現しになる。そのときにイエスは、弟子たちに聖霊を授けられる。復活の信仰は聖霊享受の前提であることがわかる。

このとき、ただ一人その場に居合わせなかったディディモ(双子)と呼ばれるトマスだけが、イエスの蘇りを信じなかった。そして、自分の指をイエスの手の傷跡に、手をわき腹に入れてみるまでは信じないと言った。

 そして、一週間後、弟子たちとトマスが一緒にい入るとき、再びイエスが現れた。家の戸には鍵がかかっていたのに、イエスは部屋の真中にまできて、「あなたたちに平和あれ」と言われた。そして、トマスに向かって、「あなたの指を私の手の釘跡に当て、私のわき腹に手で触れなさい」と言った。それで、トマスは初めて、イエスの復活を信じ、「私の主よ、私の神よ」と言って、イエスが神であることを認めて、信仰を告白した。それまでのトマスは、恐らくイエスについては、優れた預言者として、単なる優れた師の弟子として、イエスに従事してきたのだろう。死から復活したイエスを見て、初めてイエスを神として認めた。だから、復活を認めることは、イエスを神として認めることと同義である。

この福音書の記者、ヨハネがこれらの記事を記したのは、31節にも述べられているように、イエスが、神の子、救い主であることを信じ、その信仰を通じて、命を得るためであることが告げられる。

イエスが、復活であり、生命であることは、繰り返し語られている。イエスを信じるものは、だから死ぬことがない。(第11章)など。

このような物語を荒唐無稽な話と受け止めるかどうか。少なくとも、曲りなりに折に触れて聖書を読むような自分には、この話が単なる荒唐無稽の話でないことを認めているからに違いない。もしそうでなければ、とっくに聖書を無意味な本として、捨て去っただろう。

聖書は、創世記、詩篇、イザヤ書、ロマ書など多くのテキストからなる本であり、福音書はそうした土台の上に成立した文書である。・・・

これ以上の考察は日記として逸脱するので、改めて別の個所で考察することにする。

うだるような暑さである。自転車で散歩がてら出歩く。久しぶりに外食する。また久しぶりに聖書の問題について考えようという気になる。まだ当分、暑さは続くそうである。

おりしもNHKの「クローズアップ現代」という番組で、日本における人身売買問題が取り上げられていた。日本の人身売買に対する取り組みの弱いことについては、アメリカから批判を受けていることは、かねてから聞いて知っていた。情けない国である。こんな国では、トヨタやホンダがアメリカで、いくら売り上げを伸ばそうと、そんな問題はいっさい帳消しになる。

 

司法や警察関係者の、そして何よりも政治家の問題意識のなさ、その低さに、実際私も苛立ちさえ覚えていた。少女たちを食い物にしている連中は一刻も早く全部刑務所に放り込んでしまえ。

 

それにしても、南米やアジアその他の貧困の問題を根本的に解決しないことには、少女たちの生き血を吸う連中がぼうふらのように発生するのを防げないのも情けない話である。そうした国々には、自国の貧困問題に真剣に取り組み、また、売春の犠牲になる少女たちを自国から日本に送り込めないように、司法警察をより万全なものにする義務がある。

また、日本でも、そんなぼうふらのような連中は厳罰に処すことができるよう、法律に不備があれば早急に改正し、警察の機構も整備する必要がある。村田国家公安委員長や漆間巖警察庁長官たちはきちんと自らの職責を果たせ。

 

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