作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

立秋の日

2005年08月07日 | 日記・紀行

 

今日はよい天気だった。NTT西日本の営業の方が来られて、この地域も光ファイバーが利用できるようになったそうである。現在のADSLで、大容量のダウンロード以外はそんなに不自由はしてしていないので、変更は焦ってはいなかった。光ファイバーにしても料金はほとんど変わらず、むしろ安くなるようなので、変更の手続きをした。

 

NTTの民営化のときも、政治的に問題になっていた。NTTの改革も、きわめて不徹底で不完全な民営化だったと思う。しかし、それなりに競争原理が働いて、消費者の一人として、その恩恵を曲りなりに受けていると思う。

道路公団の民営化にせよ、郵政の民営化にせよ、正しい政治的な解決は、国民に大きな利益をもたらす。特殊な一部の団体の利益を優先する不合理な政策は、結局、国民全体と国家の将来の損失となる。より理想的な問題解決の失敗は、年間3万人に及ぶ自殺者を生んでいる劣悪な政治に再びつながって行く。

 

今回の郵政民営化の問題は、単に郵便局の問題だけではなく、効率の悪い社会主義的な「官僚政治」の打破と言う課題を含んでいるだけに、参議院での否決は、日本の政治の進路を大きく変更するものとなる。

 

この問題については小泉首相を支持していることはすでに明らかにした。国民全体の利益を優先的に考える改革派の首相や政治家をどれだけ多く国民が持てるかに国民の幸福は左右される。森喜朗前首相のような自分の腹(私腹)にしか目の行かない政治家しか持てない国民は不幸である。

 

図書館からフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が入荷したという連絡が入ったので取りに行く。

雲一つない快晴で、六時近くでもまだ日差しは強い。本を借り出してから、ホームセンターに立ち寄り、蚊取り線香を買う。家ではほとんど蚊にかまれることはないが、涼しい風を入れるために、窓を開ける必要があるかも知れない。それで、念のために蚊取り線香を用意しておくことにする。

いつものように小畑川沿いに右京の里から竹の里通りをまっすぐに西へ、灰方まで出る。このあたりまで来ると、西の方に大原野が見渡せる。イチョウの木で蝉に代わってヒグラシが鳴き始めていた。青々とした稲穂が広がっている。自転車の散歩が一番快適な気がする。人類の文明も、自転車の発明程度で終わっていれば、もっと幸福だったかも知れない。自動車という利器を発明したばかりに、化石燃料の浪費、地球温暖化を招くことになった。

 

畑に植わったトマトの苗木から、トマトに特有の青臭い香りが流れてくる。子供のころ母親に連れられて帰った田舎の家の庭で嗅いだ青いトマトの匂いの記憶があまりに鮮明で、この匂いを嗅ぐと、いつも、なんとも切ない郷愁を引き起こされる。夏にはこの青いトマトの香り、春はレンゲ畑が幼い頃の天国の記憶をよみがえらせる。

 

大原野の景色は、いつ見てもきれいだ。秋も、夏も、春もそれなりに風情がある。今日は、北に入道雲が空高く伸び、夕日を浴びて輝いていた。昨日の広島原爆投下の多くの記念番組の連想で、きのこ雲を思いだした。もちろん、入道雲は美しく、きのこ雲の不気味さはない。

 

畑の間を自転車で走り抜けているとき、なぜか、蕪村の「春風馬堤曲」のことを思い出した。タンポポはなかったが、赤と黄の葉鶏頭がきれいだ。ラベンダーの草むらも見えた。風が涼しい。途中、大歳神社で、その縁起を読み、十輪寺に業平寺と書いてあったので、そちらの方に向かったが、途中の坂道が億劫になり次の機会にする。善峰寺にせよ勝持寺にせよ多少の坂道は覚悟しなければならない。

 

昨日の広島原爆投下犠牲者の追悼記念式について。

追悼は当然だが、解明されなければならないのは、なぜ日本政府はポツダム宣言の受け入れでウロウロしたのか。戦争終結の意思決定がなぜそれほど遅れたのか、こうした問題が徹底的に究明されなければならない。

 

それに日本政府はアメリカ原水爆開発の情報をなぜ、入手できなかったのか、なぜ、ソ連を戦争仲介者として当てにし、ソ連の満州侵攻を予期できなかったのか。こうした問題点をこそ、テレビや新聞で、問題が最終的に解明されるまで、取り上げ徹底的に分析されなければならない。

そこから浮かび上がってくるのは、日本政府の、外務省や参謀本部の情報戦における無能力である。この無能力こそが筆舌に尽くしがたい犠牲と苦悩を国民にもたらした根本原因である。アメリカに対する腐った犠牲者意識はもういいかげんに捨て去ったらどうか。

にもかかわらず、マスコミも学者も、旧日本軍、大日本帝国政府の欠陥と無能力、問題点の解明とその国民的啓発に向かおうとはしない。

最後に、切実な哲学的問題。戦争は悲惨である。そんなことは、わかりきっている。にもかかわらず、人類は有史以来、戦争を克服できないでいる。なぜなのか。人間の生まれながらの悪の本性を克服できないという厳粛にして悲惨な人間の現実がある。そして、人間はこの現実を自覚しない。平和の祈りはある。しかし、戦争は止まない。なぜか。

 

 

コメント
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