『坂の上の雲』を読み終えた。
このブログを遡っていくと、2009年の11月にこの本を読み始めたという記事があるので、約1年と3か月かかっているわけだ。
一巻を読んで、別の本を読み、また気が向いたら次の巻を読むというような具合で全八巻を読み進めたため、これほど長い時間がかかった。
一気に読み進められなかった一番の理由は、眠くなること。
まったく、これほど読んでいてすぐに眠気をもよおす小説は珍しく、読み始めては寝、また読み始めては寝の繰り返し。
飛行機の中や、現場のバスの中、キャンプのベッドから通勤のバスまで、いろんな場所で読んでは寝ていた。
なぜ、これほど眠くなるのか。
一つは、この小説が新聞への長期連載として発表されたために、非常に繰り返しが多いということがある。
同じことを何度も説明し、同じ場面を何度も描写する。
二つ目は、著者司馬遼太郎の表現方法にある。
同氏の小説は、基本的に主人公を賛美し、そしてダメな人物はとことんダメとする、ある種極端に人物を良し悪しで分ける傾向にある。
『坂の上の雲』でもその例にもれず、フルパワーで数多く登場する歴史上の人物をよい人(能力のある人)と悪い人(無能な人)に分けている。
一度、どちらかに判定されると、その人物はとことんそちらの側として描かれる。
のちの一発逆転はほとんど期待できない。
そして気になることの三つ目は、過度の大げさな表現。
○○は世界で最も××であった。
○○は世界史上例のない××だった。
○○ほど××だった人物は世界のどこを探しても見当たらない。
などといった表現がしょっちゅう現れる。
それこそ、数ページに一度は出てくる割合で、どれだけ膨大な人数の日本人またはロシア人が世界ベスト1または世界ワースト1なのだとつっこみをいれたくなる。
いや、つっこみの前に食傷気味になってしまう。
どうも、上記の3つが合わさり、それが日露戦争を題材にしているこの小説に適用されることで、繰り返し繰り返し当時の日本という国と、文化と、そして日本人を賛美し続ける、そんな面が強調されて見えてしまう。
さらに、その逆として、ロシアがいかに当時ダメな国であったのかということについて、これでもかというくらいこき下ろして表現している。
特に小説の中盤、日本がロシアと開戦して以降、その傾向が強まり、より眠気を誘うようになった。
眠くなるということは、僕の心が自然とその考えに拒否反応を示しているんじゃないかとも思った。
こうして書くと、この小説はひどくつまらないものだというのが僕の感想のようにみえるが、もちろんそれだけではない。
そもそも、『坂の上の雲』を読んでみようと思った動機は、封建社会が崩れ、明治という新しい近代国家ができた直後の日本、特に国民のレベルでどんな変化が起き、どんなことを思って生活をし、そして太平洋戦争へどうつながっていったのか、それが知りたかったことだった。
それについては、この小説は一定の結論を与えてくれている。
また、明治初期の、著者のいうところの、
「不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。」
という雰囲気は感じることができた。
最後に一つ。
文庫の八巻目の最後に、単行本時の各巻の最後に付けられていたあとがきがまとめて収録されている。
そのあとがきには、著者のこの小説に対する思いと、明治初期の日本に対する思いがしっかりと書かれていて、実はこのあとがきだけを読んでも僕は満足できたのではないかと、最後になって思った。
やれやれ。
このブログを遡っていくと、2009年の11月にこの本を読み始めたという記事があるので、約1年と3か月かかっているわけだ。
一巻を読んで、別の本を読み、また気が向いたら次の巻を読むというような具合で全八巻を読み進めたため、これほど長い時間がかかった。
一気に読み進められなかった一番の理由は、眠くなること。
まったく、これほど読んでいてすぐに眠気をもよおす小説は珍しく、読み始めては寝、また読み始めては寝の繰り返し。
飛行機の中や、現場のバスの中、キャンプのベッドから通勤のバスまで、いろんな場所で読んでは寝ていた。
なぜ、これほど眠くなるのか。
一つは、この小説が新聞への長期連載として発表されたために、非常に繰り返しが多いということがある。
同じことを何度も説明し、同じ場面を何度も描写する。
二つ目は、著者司馬遼太郎の表現方法にある。
同氏の小説は、基本的に主人公を賛美し、そしてダメな人物はとことんダメとする、ある種極端に人物を良し悪しで分ける傾向にある。
『坂の上の雲』でもその例にもれず、フルパワーで数多く登場する歴史上の人物をよい人(能力のある人)と悪い人(無能な人)に分けている。
一度、どちらかに判定されると、その人物はとことんそちらの側として描かれる。
のちの一発逆転はほとんど期待できない。
そして気になることの三つ目は、過度の大げさな表現。
○○は世界で最も××であった。
○○は世界史上例のない××だった。
○○ほど××だった人物は世界のどこを探しても見当たらない。
などといった表現がしょっちゅう現れる。
それこそ、数ページに一度は出てくる割合で、どれだけ膨大な人数の日本人またはロシア人が世界ベスト1または世界ワースト1なのだとつっこみをいれたくなる。
いや、つっこみの前に食傷気味になってしまう。
どうも、上記の3つが合わさり、それが日露戦争を題材にしているこの小説に適用されることで、繰り返し繰り返し当時の日本という国と、文化と、そして日本人を賛美し続ける、そんな面が強調されて見えてしまう。
さらに、その逆として、ロシアがいかに当時ダメな国であったのかということについて、これでもかというくらいこき下ろして表現している。
特に小説の中盤、日本がロシアと開戦して以降、その傾向が強まり、より眠気を誘うようになった。
眠くなるということは、僕の心が自然とその考えに拒否反応を示しているんじゃないかとも思った。
こうして書くと、この小説はひどくつまらないものだというのが僕の感想のようにみえるが、もちろんそれだけではない。
そもそも、『坂の上の雲』を読んでみようと思った動機は、封建社会が崩れ、明治という新しい近代国家ができた直後の日本、特に国民のレベルでどんな変化が起き、どんなことを思って生活をし、そして太平洋戦争へどうつながっていったのか、それが知りたかったことだった。
それについては、この小説は一定の結論を与えてくれている。
また、明治初期の、著者のいうところの、
「不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。」
という雰囲気は感じることができた。
最後に一つ。
文庫の八巻目の最後に、単行本時の各巻の最後に付けられていたあとがきがまとめて収録されている。
そのあとがきには、著者のこの小説に対する思いと、明治初期の日本に対する思いがしっかりと書かれていて、実はこのあとがきだけを読んでも僕は満足できたのではないかと、最後になって思った。
やれやれ。