以前に、茨城町にあります勘十郎堀「紅葉運河」を紹介しましたがその下流にあったのが大貫運河です。
この大貫運河跡の少し上流で川沿いの土地を仲介し、土留め工事中なんです。
この機会に、大貫運河を紹介します。
かつて水戸と江戸を結ぶ内陸水路として、那珂川-涸沼川-涸沼-北浦-利根川と続く、運送路が利用されていました。
涸沼と北浦は陸上輸送でしたが、その解決のために紅葉運河がつくられました。
さらに涸沼川と太平洋をつなぐ、大貫運河の掘削も行われました。
残念ながら、度重なる修復工事。労働力だった農民の怒りも限界、大規模な一揆がおこり・・・責任者だった松浪勘十郎は(まつなみかんじゅうろう)牢獄に入れられ獄死したとのこと。名前の由来がここにあります。
遠くに見えるのが、国道51号線、涸沼川にかかる橋です。
(東側から涸沼川上流に向けて撮影)
こちらは西側から撮った様子
この運河のあった場所は、まっすぐ海の方へ向かうと、大洗港第4埠頭、軍艦なども入ります。
大洗シーサイドステーションや大洗わくわく科学館のある、大きな十字路にぶつかります。
この大貫運河が残っていたら・・・港の開発も違ったものに?
茨城県の水運の歴史を語るうえで、とても大事だった大貫運河と紅葉運河
是非、近くを通った際は、気にかけてご覧になってみてください!
[ご興味ある方は参考に]
関東農政局の運河の開削と宝永の一揆
茨城県の勘十郎堀の紹介
水路をゆく・第二運河
個人の方のブログですがとても詳しく書かれています
この大貫運河跡の少し上流で川沿いの土地を仲介し、土留め工事中なんです。
この機会に、大貫運河を紹介します。
かつて水戸と江戸を結ぶ内陸水路として、那珂川-涸沼川-涸沼-北浦-利根川と続く、運送路が利用されていました。
涸沼と北浦は陸上輸送でしたが、その解決のために紅葉運河がつくられました。
さらに涸沼川と太平洋をつなぐ、大貫運河の掘削も行われました。
残念ながら、度重なる修復工事。労働力だった農民の怒りも限界、大規模な一揆がおこり・・・責任者だった松浪勘十郎は(まつなみかんじゅうろう)牢獄に入れられ獄死したとのこと。名前の由来がここにあります。
遠くに見えるのが、国道51号線、涸沼川にかかる橋です。
(東側から涸沼川上流に向けて撮影)
こちらは西側から撮った様子
この運河のあった場所は、まっすぐ海の方へ向かうと、大洗港第4埠頭、軍艦なども入ります。
大洗シーサイドステーションや大洗わくわく科学館のある、大きな十字路にぶつかります。
この大貫運河が残っていたら・・・港の開発も違ったものに?
茨城県の水運の歴史を語るうえで、とても大事だった大貫運河と紅葉運河
是非、近くを通った際は、気にかけてご覧になってみてください!
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水路をゆく・第二運河
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