さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

在宅看護(介護)が発達してきた背景

2014年10月31日 10時30分51秒 | Web log
いつものことですが、今日も長いです(笑)

これは私個人の一考察なので、間違っているところもあるかと
思いますが、ご勘弁を。

先日の記事でWA(西オーストラリア)の在宅看護(介護)は100年ほど前に
数人のコミュニティー看護師のグループから始まったと説明しました通り
非常に長い歴史があります。

日本も、家族(主に長男&長男の嫁)が両親の面倒をみるという形での
在宅ケアは長い歴史の中でずっと行われてきたことですが、これは家族の
務めとして文化的に発展してきたものかなと思います。

でも、こちらは家族内の援助を最初から前提としていないという点で
在宅介護(看護)といっても考え方が大きく異なるかなと思います。

日本も在宅介護・看護サービスの介入が幅を利かせてきておりますので
次第に変わりつつあって、もしかしたら転換期なのかなという気持ち
もしますけれど、地域によっては、従来の慣習(家族が面倒を見る)が
強いところもあるのかなという気がします。

日本は文化的に慣習として発展してきたもので、なんというか、文化的
拘束力に拠っている部分が大きいですけど、こちらは第三者による介入の
必要が先にあって「社会的システム」あるいは「社会的機能」として発達
してきたという歴史があると思います。

さらにその背景として「独立精神」の強さが関係しているかと思います。

家族の単位がカップルを中心としているというところです。

同居なんて滅多に聞きませんし、嫁だからという理由で義両親の
面倒をみる義務があるなんてこともほとんど聞きません。
実の娘、子供であっても、両親の面倒をみるために仕事を辞めるとか、
聞いたことがありません。

ので、家族の介入を最初から当てにしないので、第三者が介入する
必要があるわけです。

老夫婦も自分たちのことで子供に面倒をかけたくないと思うのが普通だし
子供たちも自分たちの生活&自分の子供たちの世話をまず第一に考える
という感じかなぁと思います。

個人が尊重される社会では、長男であろうが、嫁であろうが、実の娘、
息子であろうが、個人として生きる権利がより大きく保障されていると
思います。かといって、親をないがしろにしているわけではないことは確かです。

さて、こちらパースにも義両親と同居している人はいますが、大抵アジア人です。

わたしの友達にも義両親の介護をしている(していた)人がいます。

部外者が関わるのを嫌がって、同居している嫁に介護の仕事を期待するとか、
そういう人の介護にまつわる大変な話を聞くと「あぁ、日本でよく耳にする、
あるいは取り上げられる問題だなぁ」と思うわけです。

ということで、オーストラリアの在宅介護&看護が個人を更には社会を健全に
維持するためのシステム、機能として成り立ってきたという意味で、学ぶことは
多いかなあと思いますね。

親と子であっても、個人の権利意識が強いんですよね。

日本人は個人の権利なんて言い出すと「わがままだ」とか「勝手だ」とか
「冷たい」とか「家族をないがしろにしていいと思っているのか?」
という感情論でぶった切る的な傾向があるような気がしますけど
健全とは思えません。

それをどう受け止めるかは個人の自由だし、人それぞれなので
どちらがいい、悪いとは言えませんけど、親であっても子供であっても
互いの幸せのために、個人の権利意識は大切だと思うし、親子であっても
相手の決断を尊重するというスタンスは守られなければいけないと思います。

家族を思いやるにしても、自分の生活をある程度犠牲にするとしても
限度があるということでしょうか?

そして、核家族化が進んできている日本においても、こういったシステム
がしっかりと確立させることが求められているのではないかと思います。

家族みんなで助けあって最後を看取るという考え方はとてもいいと思いますし、
それがある意味理想なのかもしれませんが、そうじゃない場合だってあるわけで
過去の義両親との確執とかが絡み合っている場合は、そんなきれいごとでは
済まないですよね。

それに、社会に出て働ける能力や収入を確保することができる人が無償の介護に数年、
十数年、あるいは数十年という単位で関わるということが、美徳で片付けられて
いいのかどうか...

楽しんで喜んでやっているなら問題はないですが「辛いけれど、しょうがない」
という場合だってあるでしょうから。

楽しんで喜んでやっていたとしても、仮に有償であっても、年中無休の介護が
大変なのは明らかです。

そして、家族の助けが前提としてある社会で起きがちな、老老介護とか、
孤独死とかが起きないような、社会的弱者に対する行政の介入措置があるので、
より安心して生きられるということになるのかなと思います。

家の近所に奥様を何年か前に亡くしてひとりで住んでいるおじいさんがおりますが
娘たちはもちろん、ひっきりなしに、在宅看護のスタッフ、在宅介護のスタッフ
(ただおしゃべり相手にくる人もいます)が出入りしていまして、庭の手入れ
とかも行政がしてくれているのを拝見しますと、システムとしてよく出来ているなぁ
と思います。

そしてこれらのサービスは基本全て無料。

家族が身内を介護するときに支払われるCarer Allowance(介護者手当)は
アボット首相になって廃止になったといううわさですけど
以前は、家族介護者は政府からお手当てが支給されていたということです。

政府から賃金としてお金を頂いて家族の介護にあたるという選択肢も
あったわけです。

うわーすごいなぁと思うと思いますが、それは払っている税金が高いから
成り立つということでもあります。

日本の在宅介護(看護)のことをあまりよく知らないので、日本にも素晴らしい
システムがあるのかと思いますが、是非、比較してみたいものだなと思います。

働いてないけど、忙しい

2014年10月30日 08時55分18秒 | Web log
夏は毎年忙しいのですが、またまた始まりました。

ジョナサンの夏スポーツ

去年は、野球&Tball&Tball選抜チームの試合&練習と3つの活動をこなしました。

今年は、野球&ラグビーのシンガポール遠征特別プログラム&野球の選抜チームの
練習です。

一週間のスケジュールは、といいますと

月曜日=野球の練習
火曜日=ラグビーの練習
水曜日=野球の選抜チームの試合
木曜日=ラグビーの練習
土曜日=野球の試合

これに、学校のブラスバンドの朝練(水曜日)が入るので、ジョナサンとっても
忙しいです。

しかもこれらの練習&試合全てに車であちこち連れて行ってあげなければいけないので
親も巻き添えです。場所もバラバラです。

マイクも世界中を駆け回っている最中なので、わたしが全部仕切ることになります。

火曜日のラグビーだけはジョナサンの友達のお母さんにジョナサンを
連れて行ってもらいますが、それでも結構きついかも。

いまどきの子供はこれくらいが普通なのでしょうか?

わたしは何でもやりすぎは良くないと思っているので、やりたくなければ辞めてもいい
と言っているのですが、ラグビーに関しては遠征(12月初旬)までの期間限定なので、
今ちょっと無理しても最終的にはなんとかなるんじゃないか?なんて思ったり。

でも、やりすぎて燃え尽きないように...楽しみつつ気楽に長く続けたほうが
絶対にいいですよね。

ジョナサンが赤ちゃんのときの話。

乳母車で散歩させていたときに、近所の公園で子供たちがサッカーをしていました。

それを見つけたジョナサンは、歩けもしないのに、乳母車から身を乗り出して
体を上下させてウゥーウゥー、キャッキャキャッキャと言葉にならない音を
口にして興奮していました。

それはあたかも「僕も混ぜてぇぇぇぇぇぇ、僕にもボールを蹴らせてぇぇぇぇ」と
言っているかのようで「この子は歩けもしないのに、マジで仲間に入ろうとしている」
と思ったのでした。

ま、このエピソードを思い出すたびに、今のジョナサンの伏線は既に乳幼児期に
あったんだなぁと思うのでした。

ホームホスピス ボランティア オフィスに行ってきました

2014年10月28日 16時01分43秒 | Web log
ボランティアコーディネーターの Gさんが是非一度オフィスに来て!というので、
今日、行ってきました。

わたしがボランティアをする組織は在宅看護を提供する非営利団体で、
WA, QLD, NSW, SAの四州にあります。

WAの組織は、100年前に始まったそうです。

さて、WAのこの組織は、メトロポリタンエリアから、遠隔地まで
32のオフィスがあります。

わたしがボランティアとして所属するのは、パース東側のSuburb(日本でいう町内
のような感じ)を統括するオフィスです。

この組織は地域の病院との連携が強く、急性期ケアを終えた患者さん、治る見込みのない
患者さん、慢性疾患をもち継続したケアを必要とする人が、病院を退院するに当たって、
病院の担当者が紹介状をこの組織に送り、患者さんが自宅に戻ってすぐに、この
組織によって在宅看護(在宅緩和ケア)がはじまります。

まず、慢性疾患をケアするチームと緩和医療を提供するチームと二つに
分かれます。

緩和医療を提供するチームも、広いエリアをカバーするにあたり、3つの
チームに分かれて担当エリアのケアに当たります。

各チームは以下のメンバーが所属し一緒に活動します。

緩和ケア医師
緩和ケア看護師
ソーシャルワーカー
カウンセラー
ケースコーディネーター
ホームケアワーカー(掃除、料理など簡単な家事仕事)
ケアエイドワーカー(介護士)
ボランティアコーディネーター
ボランティア

です。

お医者さんは特に緩和ケアに興味のある地域のGPが24/7
オンコールで対応します。

看護師も緩和ケア専門ナースで、24/7 オンコールで
対応します。

ソーシャルワーカーは、疾病を有する患者等が、地域や家庭に
おいて自立した生活を送ることができるよう、社会福祉の立場から
患者や家族の抱える心理的・社会的な問題の解決・調整を援助します。

カウンセラーは患者、患者の家族、そして看護師やボランティア緩和ケア
に関わる人、全ての心理的ケアを行います。

ケースコーディネーターは、急性期を経て退院した患者さんが
家庭でのケアを継続して受けられるように、教育等も含めて
ほかのメンバーと一緒に患者さんのケアを行います。

ボランティアコーディネーターはボランティアメンバーを一括して
管理します。

スケジューリングから、ペアリング(性格、年齢、国籍等に合わせて
クライエント(患者)にふさわしいボランティアを紹介します)、書類管理
ボランティア活動の中で起こる様々な相談を受け付け、
解決してくれます。

そして、ボランティア

ボランティアは、無償で患者さんの自宅にうかがって、お買い物のお手伝い、
お散歩に一緒に行ったり、新聞を読んであげたり、銀行に一緒に行ったり、
クライエントさんのご家族がお買い物に行っている間、お留守番をしたり
それぞれの希望にあわせて出来る限りのことをします。

ボランティアといっても、特殊なものなので、緩和ケアの基礎講座を
受けるなどして少しづつ準備していきます。

距離にあわせてガソリン代も至急されますし、他のボランティアの
人との交流も定期的に行って、意見交換&悩みなどを打ち明けあう
機会もあります。

以上のメンバーとのチームワークでクライエント(患者さん)の緩和ケア
にあたります。

続く

Dying with Dignity ある女性の尊厳死

2014年10月26日 11時50分13秒 | Web log
非常に重い内容なので、そういうのがダメな人はスルーしてください。

脳腫瘍で余命半年と宣告された29歳になるアメリカ人の女性が、11月1日に医者によって
処方された薬で、自らの人生に終止符をうちます。

英語では 安楽死を Euthanasiaと言います
ギリシャ語の 幸福な死 を意味するそうです

ちなみに尊厳死に当たる言葉は Death with dignity

安楽死よりも尊厳死のほうが、言葉として本人の選択と意思、そしてそれを尊重する社会の存在
が強く現れている言葉かなと思います。

オレゴン州 ポートランドにある Death with Dignity National Center のウェブサイトに
よると

安楽死=医師が直接手を下す。(医師が死に至らす注射等を施す)
尊厳死=医師によって処方された薬等を患者自らが服用する。
ので、安楽死と尊厳死は異なると定義しています。

安楽死との違いは、患者自らが服用する=患者の気が変わって最後の最後に服用を止めることが
できる道が残されているということ、そして医師は幇助を問われないということですね。

また、終末期に施される治療

末期の鎮痛剤
延命治療の中止
死を早める痛み止めの投与

これらと「尊厳死」は一線を画すと述べています。
患者の積極的な意志によって「死を選ぶ」ことと定義しているようです。

この女性に関しての日本語のまとめ記事はこちら

英語版の記事はこちら

こちらも

彼女は自らの選択を公表し、終末期における選択について主張する非営利団体の 
Compassion & Choices(共感と選択) を通じてオンラインキャンペーンを立ち上げ、
動画もアップロードして、尊厳死の権利が全米にいきわたるよう活動に関わっています。

彼女は自分の存在をかけてこの活動を推進しています。

なぜなら、Death with Dignityが合法化されているのは、オレゴン州とワシントン州のみで、
カリフォルニア州出身の彼女は、尊厳死を実行するために、自分の愛する故郷そして
長い間お世話になった医療チームや友人、知人と別れ、ご主人とお母様と愛犬を連れて他州への
引越しを余儀なくされたからです。

欧米人は「Control」することを非常に大切なものと考えるような気がします。

どれだけ自分の人生を自分でコントロールできるかどうか、自分で考え、自分の意思で
選択し、できる限り自分の望むとおりの生き方を実践する。

(何でも自分の思い通りにならないと気がすまない極端な人を Control freak などと
言って煙たがることもありますけど。)

ロビンウイリアムスが自ら命を絶ったときに、私が「可哀想だ」と口にしたとき、マイクは
「 僕はそうは思わないんだ。薬物中毒、アルコール中毒と戦って、重度のうつで苦しんで、
そしてパーキンソン病の診断を受けた。将来に希望が見えなかった彼にとって、自らの意思で
自分の人生に終止符を打ったということが、彼がControlできる唯一の選択肢だったんじゃない
かな? そういう意味ではとても理解できる。 」と言っていました。

コントロール...なんとなく自分の思考には存在が薄い言葉だなぁと思いました。

日本人はどちらかというと、自分の人生をコントロールするというよりも、
「流れに任せる」的な意識が強いような気がしますね。

さて

尊厳死を選択した29歳の彼女が

"My glioblastoma is going to kill me, and that's out of my control," she says.
"I've discussed with many experts how I would die from it, and it's a terrible,
terrible way to die. Being able to choose to go with dignity is less terrifying."

「 わたしの神経膠芽腫という病気がいずれ私の命を奪います。私はそれをどうすることも
できません。わたしがその病気でどのように死ぬのかについて沢山の専門家と
話し合ってきましたが、その最後は最悪です。尊厳をもって死ぬ選択をすることのほうが、
私にとって、恐怖はより少ないです。」

とインタビューの中で答えているように、"that is out of my control"
わたしはそれをコントロールできないという言葉から、この状況で彼女が自分の
意思をどれだけ働かせることができるのか?がポイントになっていることが伺えます。

どれだけ悩んで苦しんで出した答えかが想像できるので、わたし自身がその立場に
立ったときに、どのような決断を下すかはわかりませんが、それとは別に彼女の
決断を支援したいと思います。

さて、日本には尊厳死について明確に規定した法律が存在しません。

定義も今ひとつ曖昧かなという感じがします。

本人が「尊厳死の宣言書」に署名していたとしても、本人の意思に反して
家族がそれを覆すことも可能で、蘇生・延命処置が行われることと思います。

日本でいう尊厳死は、アメリカで言っている尊厳死(Death with Dignity)とは
異なるようですね。

日本で言っている尊厳死は「蘇生、延命処置の拒否」の意味合いがずっと強いです。

さて

オーストラリアの病院での話しですが、実習をしたときに、シフトが変わるたびに
行われる申し送り中で、NFRが必ず確認されることを知りました。

NFR 'NOT FOR RESUSCITATION' は、蘇生措置は行わないという意味です。

もし患者が蘇生処置をしない意思を表明していれば、入院患者の最新情報が記載された
ハンドオーバーノートにNFRが記載されるのです。
シフトの看護師は必ずそれを確認することになっています。

精神科の病棟でも同じでした。

これは、Legal Order であり、法による強制力を持っているので逆らえません。
もし NFRを希望する患者さんに蘇生処置をするほうが問題となります。

日本では、個人がNFRを表明していても、きっと家族の反対とかが気になって、介護施設側が
救急車を呼んだりして、NFRをする場合もあると思うなぁという話をしたら「それはだめでしょう」
と言われました。

この違いは、法制度が成立しているか、していないかの違いに拠ると思います。

法によって制度化されているかどうかの背景には、

死を個人の権利とみなすか?

それとも

それ以外のもの(宗教的教義、倫理的あるいは文化的価値観などなど)が決定権を支配するのか?

を大衆がどう考えているのか?に拠るのかなと思います。

個人の権利意識が低めなところ(個人の権利以外のものがより幅を利かせている地域)では、
尊厳死が否定されやすい、あるいは敢えて結論を出そうとしないということなんだろうと思います。

アメリカでも州によって尊厳死の扱いが異なるのも、そういったことが原因なんだと思います。

わたしは尊厳死に賛成ですし、それを望む人に選択肢が与えられ、法によって保護される
社会であってほしいと思います。

そして、日本が国として、アメリカで議論されているところの尊厳死(死を自ら決定してもいいかどうか
という意味で)が議論されるのはまだまだでしょうけれど、最低でも、本人が延命を望んでない場合は、
advanced directives によって、意識、判断能力がはっきりしているときに意思表示をし、
家族であってもそれを覆したりできないということを法によって守ることは、きちんと制度として
整えておくべきかと思います。

advanced directive も こちらでは法的力をもつ重要な概念でありまして、病気が進んで判断能力
コミュニケーション能力がなくなる前に、自分はどうしたいのか?を文書化してその実行を法的に
確実にするものです。

朝からガーデニング

2014年10月25日 13時10分48秒 | Web log
ガーデニングなんていうと聞こえはいいけど、木の剪定がメインなので
実際はかなりの力仕事。

3時間ほど働いたら、もう腕がプルプルです。

キレイになったお庭をみると気持ちいいのですけど....

ガーデニングはセラピューティック(療法的)という人がおりますが、
わたしはむしろ、ガーデニングの後にマッサージセラピーが必要な感じです。

あぁぁぁぁ。

こんな力仕事はマイクにしてもらいたいものですが、マイクはガーデニングが
大嫌いなので、ガーデニングの仕事量は圧倒的に私のほうが多いです。

これからだんだん暑くなってきて、益々ガーデニングが億劫になるでしょうから、
一気に3時間でなく、早朝一時間の庭仕事を心がけるように頑張ります。





ホームホスピス ボランティア

2014年10月23日 09時50分05秒 | Web log
就職活動はいまだに難航中。

あちこち履歴書は送っているのですが....

介護職(介護士、看護師含む)の仕事でも、一つの求人に平均10人ほどの
求職者が集まるそうで、医療介護分野での就職経験のない私には厳しい現実。

でも、Keep trying で頑張ります。

家にじっとしているのが退屈だぁとぼやいていたら、
マイクがボランティアしてみたら?というので、
在宅ケアに関するボランティアに申し込みをして、昨日、Coordinatorと
会って色々お話を聞かせていただきました。

在宅看護と緩和ケアに興味があるので、オーストラリアではどのように
在宅緩和医療が推進されているのか、どんなシステムになっているのか、
色々知るチャンスかなぁと思います。

緩和ケアなので、チャレンジも多いかと思いますが。

実際トライしたけど、続けられないという人もいるという話しなので、
やってみないことには先が読めませんが、とりあえず挑戦してみようと
思っています。

公園で...

2014年10月10日 12時50分58秒 | Web log
昨日は、わたし&マイク&友人2人とそれぞれの子供たち6人で
公園に行きました。

午後からだったので、ちょっと風が強く、寒かったですが楽しい
ひと時を過ごしました。

子供たちも、遊具で遊んだり、キャッチボールをしたり、スクーター
を乗り回したり、思い思いに遊んでおりました。

たわいもない時間でしたが、子供たちの様子を見ながら、大人同士で
いろんなおしゃべりをして楽しかったです。

ジョナサンももうすぐ12歳。来年からハイスクールなので、こんな風に
公園についてきてくれることなんてなくなるんだろうなぁ...と思うと
ちょっと寂しい私です。

法律的には12歳になったら、ひとりでお留守番が可能ですから、
子供が行きたくなかったら、家に残るという選択肢ができるんですものね。

今は渋々ついてきますけど...

ベンジャミンはあと3年と6ヶ月

あっという間でしょうね。

優しいベンジャミン

2014年10月09日 13時25分18秒 | Web log
ジョナサンネタは結構尽きないのですが、その陰にかくれて中々ベンジャミンの
ことがこの場でのネタになりません。

わたしにとっては二人ともかわいんですけど。性格は結構違います。

二人とも、ある部分は私に似ていて、ある部分はマイクに似ていて
本当に面白いなぁと思います。

先週末から、ちょっとだけ体調を崩して、喉がやられてほとんど話せなかった私。

疲れたのでベットに横になっているときに、咳き込んでいたら、ベンジャミンが
背中をトントンしてくれました。

声がでないのに、頑張って話そうとする私の口元にひとさし指を当てて
「 シィーッ、話さなくてもいいよ 」と言ってくれたり、優しさが半端ない
ベンジャミン。

自慢と受け取られても仕方ありませんけど、こういうちっぽけだけど、印象的な
出来事をいつまでも忘れないように、ここに記したいと思います。

Serpentine Falls

2014年10月08日 10時53分56秒 | Web log
昨日は Serpentine Fallsという、Perthから車で40分ほどの内陸部にある
滝を見に行って着ました。

比べてはいけない!!と思いながら、やっぱり比べてしまう私。

高低差が激しく、降水量が半端ない日本にある滝に比べたら迫力に乏しく
「......」なんですけれどね。

滝に行く途中、Jarrahdaleという小さな町を通り過ぎたのですが、Jarrahという
材木の名前が町の名前にあるとおり、Jarrah Forestに囲まれた小さな町で、
昔は材木業で盛んだったようです。

可愛らしい、カントリーテイスト漂う町でした。

で、滝を見に行ったら、地元の人と思われる男性が二人滝つぼで泳いでおりました。

Serpentine Fallsは、車もなく、海から遠い丘陵部に住む人にとって昔は涼を楽しむ
身近な憩いの場所だったと思われます。その慣習がまだ残っているようで、水着&浮き輪
持参できている人たちも見かけました。

Serpentine Fallsをみた後、Serpentine Damを見に行きまして。

それも、長い歴史の中で水害と戦ってきた日本の技術力満載のダムに比べたら
「......」な感じで。

実家の近くにあるダムを見学に行ったときの感動を思い出して、比べては
いけないと思いつつ。

ダムの貯水量がいつも少なくて、キャパシティーの20%レベルをうろちょろしている
程度ではダムにさほどの技術力は必要ないわけで。

万が一に備えて、放流する堰はありましたけど。果たしてこのゲートを開ける日は
訪れるのか???

でも、家族連れでピクニックを楽しむ人たちも多く、野生だけど、人間にかなり
慣れているカンガルーの親子が餌をもらいに出てきたりとか、野鳥もいて、
丘陵部の自然を楽しむにはもってこいの場所かと思います。

署名

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