さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

仲良し兄弟

2010年06月30日 20時24分30秒 | Web log
ベンジャミンが大きくなってきて、ジョナサンにある種の憧れのようなものを抱くようになってきた。

ジョナサンが大好き。

なんでもジョナサンと一緒にしたい。

マミーは、もう必要ないかもという感じ。

成長のしるし。とてもいいことだと思う。

最近も、わたしとではなくジョナサンと一緒に寝たいと主張するようになった。何度も試すのだけれど、結局わたしと一緒じゃないと眠れず、わたしのところに来る。

そして大泣き。ジョナサンの部屋で一緒に眠れなので悔し泣き。

ジョナサンと一緒がいいんだそうだ。

3歳半も離れているので、今のところライバルにはなりにくい。今のところどんなにがんばっても追い抜けないし。ジョナサンに勝ちたいんだけれど、勝てない。でも、なんでもやれちゃうジョナサンがカッコイイ!!といったところだろうか。

テレビを見ているジョナサンに突然握手を求めて、「ジョナサンは僕のベストフレンドだから、握手」と言ったり、ジョナサンに手紙を書いてプレゼントしたり、見ていてとても微笑ましい。

ジョナサンがいれば、心強いらしい。

ジョナサンを追いかけるのはいいのだけれど、ベンジャミンの個性が薄れてしまわないでほしいと思うし、自分へのこだわりも忘れないでほしいとも思うのだけれど、ま、それも彼らしさだろうし、私の目から見ても二人の性格はとても違うので、大丈夫だと思うけど。

学校の勉強とか成績なんてどうでもいいから、お互いを尊重し、助け合える親友のような兄弟であってほしい。

そしていつまでも、幾つになっても仲良しでいて欲しい。

音楽療法

2010年06月29日 10時23分34秒 | Web log
音楽って面白いなぁと思います。

クラシックが好きな人、ロックが好きな人、ニューエージが好きな人、民謡、演歌が好きな人、いろいろな分野があって、どんな音楽が好きかは個人の嗜好によって分かれます。

そして、身近で言えば、マイクとわたしは音楽の聴き方が違う。

マイクはリズム、ベースラインを聞いて、コード進行とかも楽しんで聞くらしい。

わたしは、メロディー中心に聞くし、例えばエンヤとか、リズムがはっきりしない音楽を好む傾向がある。グレゴリオ聖歌とか好きだし。でも、マイケルジャクソンを聞いて、踊りたくなったり、ロックも聴いたりする。

音楽を聴くときの脳みその受け止め方って個々によって違うようですね。

で、音楽療法なんてのがあるようですけれども、好みの音楽が違う場合に、聞いたときの効果ってのも多少違うんじゃないのかと思ったり。

ある人の論文を読んだのだけれど、バッハの『G線上のアリア』と、坂本龍一の『Energy Flow』に使われているコードとその割合に相似性があるという。

個人的にどちらも好きだし、どちらも確かに癒される。両方とも人気の高い楽曲だと思う。

まったく違う音楽だけれども、使われているコードの割合が似ているというのがとても興味深い。

以前ブログにアップしたけれど、パッフェルベルのカノンのコード進行が実は、久石譲の音楽やロックでも使われているという話をしましたが、わたしのような素人が聞いただけではすぐにはわからないものもあるし、聞いたときの印象もかなり違うような感じがする。

音楽療法という観点での音楽では、その類似性と相違性と心に作用する効果とやらをどのように理解するのだろう。

効果が好みに左右するというとしたら、同じコード進行でもAさんには、Aの曲が効果があり、BさんにはBの曲がいいということになるのかな?

ま、料理と同じで同じ材料をつかっても、違うものができあがるように、個人の好みで楽しめばいいってことなんだろうけどね。

療法という名のもとに方法論化されたときに『この曲は不眠に効きます』なんて単純に言い切れるものなんだろうか?とふと考えてしまいました。

どうでもいいことなのかもしれないですけど。

足るを知る心

2010年06月28日 11時36分36秒 | Web log
ちょっとした子供の衣類を収納する家具を探していた。

でも、家具はあまり増やしたくないし、無駄なお金も使いたくないしという気持ちもあって、手に入れるかどうか迷っていた。

ベンジャミンの友達のお母さん(シドニー出身の白人のお母さん)から電話がきて、子供用の引出し家具ほしい?と聞かれ、自分が思っていることを伝えたら

『いらなくなったら返してくれてもいいし、タダで持っていって!』という。

『見た目もきれいだし、新しそうだし、お金払うよ』というと、『引越しのときに売り払った家具等の収益が予想以上の額だったから、それ以上はいらないの。だからお金はいらないから持っていって』という。

十分な収益を得たから、それ以上はいらない。

少しでも利益を得たい、高く売りたいという欲は、誰にでもあると思うし、それをまったく悪いこととも思わないけれど、とっても清清しい気持ちがした。

上をみる気持ちは、原動力にもなる。

欲って誰にでもあるし、たとえばオークションとかEbayとかで少しでも高く売る努力をして、予想を上回る値がついたら、わたしはうれしい。得した気持ちになる。

それに、物の売買だけでなく、勝負の世界などでは、貪欲に上り続ける、努力し続ける姿を見れば、それはそれでとても感動する。

だから、貪欲さをまったく否定はしない。

でも、限度を知って、足るを知るという生き方も心地よい風のようなものが心をやさしく包み込んでくれる。

それもまた違う意味で、感動する。

犀の角のように

2010年06月25日 22時51分49秒 | Web log
昨日の記事を書いたあと「犀の角のようにただ独り歩め」の言葉をふと思い出しました。

『音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。』

何にも揺るがされないというのは、とても難しいことかと思いますが、
胸に刻んで置きたい言葉だなぁと思います。

さて、日本はデンマークを相手にすばらしい試合をしたようですね。

深夜だったので、見れませんでした。とても残念です。

常々思うのですが、こちらの人の体格をみると男性は言うまでもなく女性もそうですが、骨格からして、筋肉のつきかたからして全然違うのです。

日本ではでかい私ですが、こちらでは華奢なほうです。

男性なんか、背がたとえ高くなくても、胸板は厚いし、骨もしっかりしています。ので、サッカーなどでぶつかり合ったら、日本人なんてはるかかなたに吹っ飛ばされてしまうんじゃないの?って感じです。

だから、欧州組を相手に戦ったら体格でもう、負けてるような感じさえします。

日本だけでなく、アジア人は全般的に華奢にみえます。

それでも日本のナショナルチームの身長とか体重とかみると、日本では体格のいいほうなんでしょうけれど、それでも厚みが違う感じがします。

体格という遺伝的要素の強いものを比べたら、完全に劣る日本のチームがここまで戦えたというのは、本当にすごいことなんだろうなと思います。しかも日本人の監督のもとで、というのもすごい。

戦術をどこまで語るかというのも、いろいろあるのかと思いますけれど、岡田監督がもうちょっと構想のようなものを論理的に表現していたら、また評価が違っていたかもしれませんが。

大言壮語になりたくないというのもわかるし、強気発言をして負けるよりは、何も言わないで勝ったほうが日本の美意識にあっているのかもしれないけれど、でも、言ったことがそのとおりになったら、それはそれで評価がぐっとあがるだろうし、しっかりとした考えと戦術構想ができているんだなと見ているほうも安心できるような気がします。

ま、それはさておき。

体格も華奢で、歴史も浅い日本のチームがこれだけがんばれたというのは、本当にすごいことだし誇れることなのではないかと思います。

わたしは素人なので何もわかりませんけれど、『無言実行』が美徳と考えがちな私の世代とは違う、若手選手の前向きな発言なんかは、はったりなのかどうかわかりませんが、価値観の変化を感じさせるものがあります。

岡田監督へのおわびを語るスレッドが2ちゃんねるやTwitterで立てられているというのも、なんだか単純にいいなぁと思いました。

ワールドカップを期に、日本人が日本人であることにもっと誇りをもてるようになれれば、と願うのは私だけでしょうか?

確かに悲惨で暗いニュースとか、国政に物申したいことはいろいろあるけれど、それでも単純に日本っていい国だなぁと思うんですよ。

それは私が日本じゃない国で、日本人(有色人種)であることで無条件差別されて、時に悔しい思いをすることがあるからかもしれません。

自分のもっている価値観とかは日本に生まれ育って培われたいものだから、異国にいて違和感を感じるのは当然だろうし。

ここまで言わなくちゃいけないの?
ここまで戦わないといけないの?

過ぎるくらいに自己主張しないと見向きもされない環境で、わたしは日本でいたときと同じように生きているつもりだし、背伸びをしようとも思いませんけれど、でも少しでも心地よいポジションを得るためには、新しい環境に適応しないといけないんだろうなぁとも思ったり。

でも、わかってくれる人も中にはいるし。

最終的には他の人がどう思うとか、そんなのはどうでもいいことなのかもしれない。

行き着くところは『犀の角のようにただ独り歩め』ってことなのか。

いろいろあっても、自分を見失いたくない。

そう思います。

自立+自信=不安を乗り越える強さ

2010年06月24日 08時59分53秒 | Web log
今日はベンジャミンのモンテッソーリスクール最後の日。

今朝もベンジャミンは「半日でお迎えにきてね」と言い、教室の前で入るのをためらう。

そういう後ろ向きな態度に「私たちの決断は正しかったんだ」と思うと同時に、子供の感情に左右されて、途中でやめてしまうことを決めたことが本当に正しかったのかどうか、考えてしまい何とも言えない複雑な気持ちになってしまった。

でも、私に限って言えば、何かが終わるとき、何かを決断するときというのは、両極端な気持ちが相俟って存在することが多いような気がする。

慣れた環境が終わることの寂しさと、未知なる環境がどんなものかわからない不安がつきまとう。

ま、この世に完璧なものがありえない限り、すべてにプラスとマイナスの面が存在することを思えば、理論的に『すべての決断に間違いはない』とも言える。

どちらの要素を見るかで、決断が『正しかった』『間違いだった』という答えが導き出されるに過ぎない。

仮に『間違いだった』という答えを導き出すことがあったにしても、『間違いだった』ということですら、決断を下し、決断に応じた行動を取り、結果を見、そうしてからでなければ導き出せないわけだから、たとえ間違いであったとしても、間違いだという答えを導くためには、その過程が必要だったのだろう。

人生に公式のようなものがあって、それに当てはめればすべてうまくいくというようなものがあれば別だけれど、そうはいかない。

そしたら人生は常にバラ色だろうし、何の苦労も、痛みも、悲しみも何にもない。

でも、それは違う。

人生の負の要素を受けるのが怖いから、逃げているだけにすぎない。

ある種の責任放棄。

漠然とした不安を抱えながら、自分の足でしっかりと立ち、現実を柔軟に受け止めていく柔らかな心で、毎日を歩いていくには、過信ではなく、『自信』がないといけないんだなぁ、と思う。

『自信』、英語では Self Confidence というのだけれど、自分を信頼するってことになるんだろう。

自信がないと、自分以外の何かにすがろうとする。
そして支えてもらおうと思う。

社会的地位(職業)だったり、学校だったり、評判だったり、お金だったり、哲学だったり、宗教だったり、誰かがこう言ったとか、先生がああ言ったとか、隣人だったり、友達だったり、家族だったり、ありとあらゆるものがその対象になりうる。

でも、最終的には『自分』を信頼すること。信頼って大げさだけれど、自分の足でしっかり立つってことかな。

それしかないのだな、と思う。

(じゃ、自分って何? なんて、哲学的な質問はやめてくださいね。泥沼にはまるから。『われ思うゆえに、我あり。』くらいにとどめておきましょう。)

最終的には自分しかないという事実を引き受けて立ち、過程で起こりうるすべての事象(いいことも、悪いことも)を受け止めて、歩き続ける。

何にも寄りかからない。

そこに『強さ』があるということを意識するだけで、物の見え方、受け止め方が違ってくるような気がする。

そういうことを学んだだけでも、今回の経験は自分にとって、とっても良かった。

たかが子供の学校(幼稚園)ごときでね。

大げさな。

昇級審査終わる

2010年06月22日 11時32分30秒 | Web log
日曜日、無事に空手の昇級審査が終わりました。
まず、終わったので安心。

で、はじめたときからのパートナーのダニエル。

今回は、グループのリード役でした。
韓国語でのコマンドを覚え、演技の一つ一つをリードしていかなければ
なりませんでした。

お気の毒。

同じ世代なのでよくわかります。

若者のように覚えは早くないし、思い出すにも時間がかかる。

でも、コマンドが遅いと演技全体がだれだれになってしまうので、それはそれは責任を感じたかと思います。

で、3人の男の子たちがイライラしているのも伝わってくるのもわかる。

覚えも早いし、演技のペースも早い。

彼らが1回で覚えられるものを、わたしたちは3倍以上かかる。それでも気を抜くと間違う。

厳し~い。

それでもわたしたち、がんばりました。

で、気になっていたのですが、ダニエルは正座ができません。長時間座っていると苦しそうな声をだします。蹴りなどのときも、よくバランスを崩します。

お互い年だし、と思っていたのですが、理由がわかりました。

若いときに運動しすぎて、膝を痛めたらしい。

で、軟骨が磨り減って、手術したのだけれど、それでも痛みは慢性的に続いているとのこと。

痛みと、記憶力の低下と、動きの鈍さ、若者の厳しい視線に耐えながら、よくがんばったよね。

でも、怠惰な私の素朴な疑問。

膝に痛みを抱えているのに、どうして空手をはじめようと思ったのだろう。

わたしなら、それを言い訳にスポーツなんてしないだろう。

スポーツが好きな人っては、たとえ痛みを抱えても、チャレンジせずにはいられないのだろうか。

すごいなぁ。

きっと、痛みを抱えて新たな挑戦をあきらめて生きる以上に、没頭できるものがあるって幸せだろうなとも思うし、ダニエルは強い精神力をもっているんだろうなぁと思う。

今度聞いてみよう。



ワールドカップ 日本VSオランダ 

2010年06月20日 09時09分35秒 | Web log
昨日は空手の昇級審査のプレゼンテーションがありまして、3時からみっちり練習、そして演技、上級者の演技の鑑賞と3時間空手漬けでした。

上級者の演技は毎回見て、惚れ惚れします。切れ味のよさ、動きのリズム、回し蹴り、とび蹴り、本当に美しいなぁと思います。

3時間半に及びましたが、楽しかったです。

今日は最終日、お昼から行ってきます。

そして、昨日は日本VSオランダ戦。

時間に間に合ったので、観戦しましたよ。

岡田監督。W杯開始前は、散々プレスに叩かれていたし、戦略が見えない感じだったし、誰も勝つとは思っていなかったのに、まさかのカメルーン戦勝利。
で、昨日も負けちゃったけれど、マイク曰く「日本、いい試合しているじゃない」とのこと。後半戦、勢いが落ちているなぁって感じがありましたが、素人目からしても、オランダ相手に粘り強い試合をしたなぁと思います。

マイク曰く、「ゴール間近でボールの動きが鈍るのは残念だなぁ」と。

まぁ、完全な位置とタイミングを狙って確実なゴールを目指しているんでしょうけれど。

後半戦の最後の20分あたりに中村選手が入ってきましたね。

贔屓目に見るからかどうか、パスが軽妙でとても美しいなぁと思いました。

他の選手にない軽やかなボール裁きは、本当に美しいですよね。

そういう目でみたからそう見えたのかもしれませんが。なんせ素人なので。

負けちゃいましたが、次に期待しています。

ところで、どうして岡田監督はもっと中村を投入しないんでしょう?

2002年のワールドカップでの稲本選手の活躍が記憶にがっちりと残っているせいか、稲村を入れたら起爆力になりそうなのになあと思ってしまうわたしのデータはあまりに古すぎ、かつアップデートされていないという事実がわかってしまいますね。

現在の稲本の評価はどうなんでしょうか。

分離不安

2010年06月18日 22時38分34秒 | Web log
ベンジャミンの学校いやいや病が続いています。

学校、先生に責任があるのか?
子供が興味を持つようなクラス運営をしてくれないからじゃないか?
厳しすぎなんじゃないか?

と思ったりもしましたが、全然問題なく通っている子が大半なので、それはないなと。

それに、すべての人が喜ぶクラス運営なんて、ありえない。

結局、与えられた環境にどのように適応していくか、個人の問題なんだろうと思う。

ベンジャミンに、何が嫌なの?なぜ嫌なの?聞いたりもしたけれど、4歳児がまともに答えられるわけもなく、『嫌だから』というのが、せいぜい。

優しい先生も、遊びも、学ぶことも、すべて彼の心にどうも響いてこないらしい。

どうしてか?ずっと考えていた。

先生と面接もした。

トイレに一人で行くのを怖がること。
時々、わたしが彼の視界から消えるとパニック状態になるときもある。
わたしが台所で仕事をしていると、台所に自分のおもちゃを運んできて、遊ぼうとする。
遊びに熱中しているときは黙々と一人遊びをするのだけれど、ふと気づいてわたしの存在を感じられないと怯える。

(一見、そんな神経質に見えないんだけれど。)

など、気がつくことを話したら、彼は感情的なので、感情に捕らわれると、それ以外のものを全く受け付けられなくなるんですね、と言われた。

その通りだなと思う。

わたしも、そうだったと思うし。

小さいとき、走るのが得意だった私は、2年生のときだったと思うけれど、学年の代表として市民運動会の選手に選ばれて、放課後に残って練習したりした。名誉なことだったのかもしれないけれど、とにかく嫌で嫌でたまらなかったし、苦痛だったことを覚えている。とにかく早く家に帰りたかった。姉もメンバーにいたけれど、そんなことは全然助けにならなかった。

屈託のない姉に比べると、私は神経質な子供だったと思う。

で、母に子供たちの写真を先日送ったら、「ベンジャミンの表情が、お前の小さいときにそっくりだと思う、なんというか内向的っていうかね・・・」

まさに、その通り。

ま、わからない人にはわからない感情だろうな。

私と一緒にいると安心するようだし、一緒にいたいみたいなので、学校は辞めさせることにした。

遺伝的なものかと思うけれど、どこからくるのかわからない不安な気持ちが少しでも和らぐように『大丈夫、大丈夫』と言い続ければ、いつかベンジャミンが外の世界を信頼できるようになる日が来ると思う。

それまでのんびり一緒にいればいいんだよ。

増税するなら

2010年06月17日 10時31分31秒 | Web log
民主党がマニフェストに消費税増を明記したとか、詳しいことがチェックできないので、なんともいえませんが。消費税を上げることに私は反対しません。財政難なら仕方がない。

って、オーストラリアに住んでいるので、何を言っても国内のことに関与できないので無責任かもしれませんけど。

でも、消費税を上げるなら、ひとこと注文が。

食品、医療費など、生命維持に必要なものは、無税か、5%維持にしてほしい。

電化製品、車など、生命維持に特に影響のないもの(ぜいたく品)については、増税してもいいと思います。

カナダがそういう税率を取っていると聞いたことがあります。

面倒かもしれませんが、その辺をきめ細かに検討してほしいなぁと思っています。

40代自殺の増加幅最大=20~30代は過去最悪-12年連続3万人超

2010年06月16日 10時22分32秒 | Web log
時事ドットコムの5月13日付けの記事が気になった。

こういうタイトルを出されると、なんとなく自殺者は20代~40代に多いという印象を受けてしまいますが、実際、3万人を超える数の内、1万8525人は50代以降に分布されており、71.5%が男性であることが警視庁が発表している平成21年度のデータから読み取れます。

原因は健康問題が1万5867人、そして経済・生活問題が8377人で突出しています。

確かに、若い人の自殺者が増えているというのも経済基盤を担う世代なので、大きな問題かと思いますし、政府も対策に急いでいるようですが、注目されることなく亡くなっていく高齢者の存在がわたしには気になります。

政府は、若中年層、勤労層向けの対策に乗り出したような記事は時々目にしますが、健康問題を苦に亡くなっていく高齢者については、死期を自ら早める決断を下したに過ぎず、それは個々人の問題に拠るところが大きいと考えているのかな。

それにしても、個人のもつ不安を受けとめる場所のようなものが、あってもいいのではないかと思うんですけれど。

『それは家族の仕事だろう』という人もいるかと思いますけれど、家族に迷惑をかけたくないと思う人が多いとしたら、家族は受け皿にはなることができたとしても、なりにくい部分でもあるような気がします。

第三者がかかわることがいいときもあるし。第三者だから弱音を吐けるということだってあるだろうし。

経済、生活苦という原因については、収入が年金以外に見込めない高齢者が安心してくらせる何らかの手立てが必要なんじゃないの?

なんて考えたりします。

弱者救済なんていうと、左翼だとか、共産主義だとか、その一言で片付けられてしまいそうな感じですが、本当のところ、弱い立場にある人は、やっぱり保護されなければいけないんじゃないの?と私は思うんです。

自分もいつかは、そうなるわけだし。

一生懸命働いて、年を重ね、残るのは不安だけというのは、なんとも理不尽だなということ。

前も書いたように、日本は貯蓄高が多く、保険加入者も他国に比べてかなり高い。

世界にも誇る長寿大国、60歳で定年を迎え80歳まで生きたとして、20年は年金のみに頼って生きることになる。

これってどうなんでしょう?

中国が台頭してきたとはいえ、不景気が長引いているとはいえ、GDPは2008年の時点で国内総生産世界第2位の経済大国で豊かなはずなのに、
特に高齢者が抱えていると思われる『将来への不安』と、年金だけでは安心して生活していけないという現実におびえながら生きている多くの高齢者や、いずれ自分の身にも降りかかってくるんだろうなぁという思いに、なんともやるせなくなってしまうのでした。

超高齢化→福祉の見直し→お金がかかる→少子化で生産力のある人口が減っている→国家の財政がさらに悪化ということで、やっぱりお金はかけられませんということなんだろうかなぁ。

なら、元気な高齢者がちょっとでも働ける環境を整えていく必要があるんじゃないかなぁと思うのです。

平凡な一市民、しかも海外在住者があれこれ考えたところでどうにもならないのかなぁと思うとねぇ。

オーストラリアの国民総生産は世界10位にもランクされておらず、10位のブラジル以下ってことになりますけれど、不安そうな老人が少ないような感じがするんですけど。

日曜日にプールに行くと、決まって脳性まひの男性が介護者と一緒に、筋肉をほぐすために泳ぎに来ているのを見ます。

老人が一生懸命水中ウォーキングをしたり、高齢者用アクアビクスに参加しているのをみると、本当に元気だなあと思います。

以前、働いていたときに会社に来たドイツ人の人が「日本の老人は、ドイツの老人(自分の父親世代)に比べると、ぜんぜん目に輝きがないというか、希望がないように見えるなぁ」と言っていた言葉をふと思い出しました。

署名

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