さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

日本の住宅事情を考えてみた

2009年09月30日 20時38分49秒 | Web log
おかげさまでなくなったと思っていた3つの内
2つが見つかりました。

ウインドーブレイカーは、昨日のサッカーの練習場
に置き去りに。

ゲームボーイは、犯人が実はベンジャミンで、
どこからともなく探し出してきました。

今朝はかなりイラついていましたが
今はとてもハッピーです。

4時にはたと目を覚まし、ウインドブレーカーが
家にないことに気がつき、イライラして眠れず、
Let it go を繰り返しながら、瞑想して、眠ろうと
頑張っていたのは、取り越し苦労はでした。

でも、戻ってきて良かった。

こっちじゃ、どこかに置き忘れたら、たいていは
ドロンですから、ラッキーでした。

さて、ほとんどの人は、就職して、家庭をもって次に
考えるのはマイホームの実現かと思います。

で、多くの人が住宅ローンを組んで、マイホームを
手にいれます。

そして、マイホームの実現と共にローンの返済に
残りの人生を費やします。

家族のため、そしてマイホームのために、毎日大変な
思いをして働きます・・・・定年まで。

でも、定年の頃、購入した不動産価値といえば、土地代くらい
でしょう。30年後には・・・家の価値はほとんどゼロになります。
それが日本の事情なので、仕方ないのですが。

30年働いて、ローンを返済して、やっと定年を迎えた頃には
家の価値は下がり・・・となると、なんだか一体その30年は
なんだったんだろう??って、思います。

家と言っても消耗品なので、古くなるし、売りに出すといっても
高いお金を払って、築30年の家は誰も買いません。

ところで、わたしがこちらで借りている家は、
大体築30年。

古いですけれど、まだまだいけます。レンガ造りなので
頑丈です。

で、資産価値は恐らく5千万くらいかと思います。
(不動産ブームということもあって、10年前よりも
2000万くらい値段は上がっています。)

景気と不動産はある程度、比例するので、まぁ、なんとも
いえませんが、それでも、日本の住宅はある意味、消耗品の
ような感じが否めません。

30年働いて、家そのものの残価価値がゼロになるものの
ために一生懸命働くって、なんだか悲しいね。

もっと頑丈な家を建てるって可能なんじゃないだろうか。

でも、頑丈な家を建てたら、住宅産業が儲からなくなるから
敢えて、頑丈じゃない家を高いお金で買わされているような
きがしてなりません。

定年を迎えて、ローンも組めなくなって、新しい家を
建てることもできず、家の価値は下がるわ・・だったら、
老後がとても不安になるような気がします。

こういう構造って、おかしいと思うのは私だけでしょうか?

頑張って働いて、不安だけ残るって、腑に落ちないなぁ。

鳥脳

2009年09月30日 08時09分04秒 | Web log
鳥は3歩歩くと、忘れるといいますが
少なくとも家の男子たちは、鳥脳の持ち主です。

この4日の間に、ジョナサンが無くしたもの。

「ゲームボーイ本体」

「帽子」

「ウインド・ブレイカー」
(これって正しい?ナイロン製の薄手のジャンパーです。)

わたしは、物をなくすのがとても嫌なので、無くしたことが
判明すると、気になって見つかるまで探すタイプ。
見つからないと、怒りまくる。

失くしたら戻ってこないので、怒っても無駄だと分かって
いても、怒ってしまう。

Let it go
Let it go

と気を沈めるために、自分に言い聞かすのだけれど
落胆が大きい。

で、失くした本人はけろっとしているのだから、
どうしようもない。

だから、繰り返し失くすのか?

物に執着がないのは、いいことですが。
失くすのだけは、いい加減にしてほしい。

でも、マイクも全く同じ。

過去に何を失くしたか、

パスポート
お財布
運転免許 etc etc

これら重要なものを失くしちゃうくらいですから、
程度がわかるというものでしょう。

わたしは、失くし物は少ないほうかと思いますが
「学習しない人」とよく言われます。

一度かなり痛い経験しても、また同じ事を繰り返して
しまう。










鳥脳と大して変わりありませんな。
















今日からスクールホリデー

2009年09月29日 20時47分12秒 | Web log
やってきましたスクールホリデー。
ジョナサンはサッカー、ベンジャミンはマルチスポーツの
スクールホリデープログラムに通わせています。

午前中は思いっきり身体を動かします。

それ以外は、友達と遊んだり、映画を見に行ったり、
スクールホリデー中のさまざまなイベントに参加したりして
2週間思いっきり楽しみます。

親は大変だけれどね。

今日、ジョナサンはティモシーと一緒にサッカーに行き、
午後はティモシーが家に来て遊びました。

家の前に、枯れた木の根株があり、そこに大きな
蟻が巣を作っていたのですが、先週、ジョナサンと
ティモシーというモンスターに見つけられ、大虐殺
に遭いました。

今日、2人のモンスターは、その残骸を更に荒し、
最後の一匹も逃すまじと長い間、根株をいたぶって
いました。

何度、私が「止めなさい」と叫んでも、止めません。

実は、わたしも小さいときに同じことをした記憶が
あります。

で、わたしも何度も怒られましたが、同じ事を
繰り返していました。

子供はなぜあんなに残酷になれるのでしょうか。

でも、子供が残酷というよりも、人間の本能には
残虐性が含まれているのでしょうから、大人は
大脳皮質の発達によって、本能的を司る部分が
相対的に小さくなってしまったにすぎないと
いったほうが、正しいのかもしれません。

でも、戦時下などある条件の下では、その残虐性が
大人でも表面化してくるのですから、子供は残虐
だけれど、大人はそうではないというのは
まったくの嘘でしょうね。

で、今日、ティモシーが蟻を踏み潰しているのを
目の前でみて、ジョナサンが

Why do you have to do that ?!?!

と叫んでおりました。

先週、君も全く同じことをやっていただろう、
と思いましたが、人の行為をみて、それが
どれだけ残酷かということを
少しは学習したかな?と思いました。

願わくば、これ以上の被害『蟻』を出したくない
ものです。

っていうか、本当にやめてほしいです。





パーティー、パーティー

2009年09月26日 14時58分23秒 | Web log
今日は、朝からベンジャミンのクラスメートの
誕生日会に呼ばれていった。

木曜日の事件があって、まるでだだっこのように
「行きたくねぇ」を連発していたのだけれど、
その人に関わらなければいいだけの話だと、自分に
言い聞かせて、行ってきました。

でも、その人は来ていませんでした。

ホッ。

で、午後はジョナサンの空手教室、夕方はジョナサン
のクラスメートのお母さん2人とお食事に出かける。

今宵は、久々の『タイ料理』

イエィ

で、明日はジョナサンのクラスメートのバースデイ。

このところ毎週のように誕生日会に招待されている。

呼ばれた方は、予算内で買える、それなりに
いいプレゼントを探しまくり、それなりに労力を使う。

子供たちにとって、バースデイパーティに呼ばれるか
どうかは、一大事。呼ばれなかったら、やっぱり傷つく。
なので、限られた人しか呼ばない場合は、秘密裏に
事が進む。

親は親で、バースデーに何をするか、誰を呼ぶか、
お返しを何にするかで、頭もお金も神経も使う。

色々な思いが錯綜するイベントです。

被差別の側に立つ

2009年09月25日 13時59分36秒 | Web log
昨日、ベンジャミンの通っている学校で非常に不愉快なことが
あった。

こっちでは子供が誕生日を迎えると、母親が学校にお菓子をもって
きてクラスメートに配るという習慣がある。

で、ベンジャミンも含め、ベンジャミンのクラスメートが
帰る間際にお菓子をもらった。

子供はもうお菓子に釘付け。

で、3歳になる男の子が学校の脇を通る道路に沿う歩道を1人、
母の声も聞かずに車に向かって歩いていた。

お菓子に気をとられて、母親の声は全く聞こえていないようだった。

で、母親は子供に声をかけつつも、フェンス越しに友達と
しゃべっている。

子供はテクテクと歩き続け、道路脇に止めてある車と車の
間に入っていって、姿が見えなくなった。

で、子供の名前を呼びつつも、動き出そうとしない親を
いぶかしく思いながら、

「親が行動をとらないということは、特に危険とも思っていないのだろうから、
わたしがしゃしゃり出て助ける必要はないのかも?」と。

そう思っている自分にびっくりしました。あぁ、これってすごくなんというか
個人主義的な発想だなぁって。

でも、やっぱりどう考えても危ないし、これは子供を母親の元へ
つれていかないと、と思って、走って子供を追いかけた。

すると、その母親がわたしの行動を見て一言。

「He is just walking to the car (その子はただ車に向かって
歩いているだけよ)」

頭が真っ白になりました。

ありがとうの一言も言えないどころか、わたしが余計なことを
しているとでも言いたいかのような口調だった。

で、わたしが

「 is that OK ? (それって大丈夫なの?)」

と言ったら、その人、黙っていました。

で、終わり。

自分の車に戻り、はらわたが煮えくり返ったわたしは、どんなにか
彼女に向かって悪態雑言をぶつけられたらいいだろう、と
思いました。

で、助けなきゃ良かったと思いました。

でも、自分にそういうことはできないと分かっています。
悪態雑言を放ったところで、あるいは助けるべきときに
助けることを躊躇したことで、後ですごく後悔することも。

で、わたしがアジア人だから差別されてるんだ、と思いました。

そんなもんです。

話しかけても無視される。挨拶も返してもらえない。
目も合わせてもらえない。
こっちで、そんな経験いっぱいしました。
車を運転しているだけで、F○○Kを示すジェスチャーを
されたこともありますし。

皮膚の色、髪、目の色、だけを見て、存在を否定されるって
すごく悲しいことです。

今回のことについて、わたしが思ったことは
「きっと次に誰かを助けようとしたときに、きっと今日以上に
躊躇するだろうな。また何か言われる、と思って、正しいことをする
よりも、自分を守ること(傷つかないようにすること)を優先させる
だろうな。」ということ。

非常に悲しくなりました。

ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで、殺されたり、
黒人が黒人であるというだけで、人間以下の扱いを
されたり、昨今ではイスラム教徒であるだけで、テロリスト
じゃないかと思われたり、ま、差別は今に始まったことでは
ないのですが、自分が被差別の側に立つと、それがどんな
『暴力』であるか身に沁みて感じます。

怒りを爆発させながら、マイクに話したら

「君はやるべき正しいことをやったのだから、それで
いいのだ。相手がどういう反応を取ろうと、人を侮辱するような
その態度は、彼女の問題であって、君の問題ではない。」

と、いかにもマイクらしく慰めてくれました。

とっとと忘れようと思います。




不思議なベンジャミン

2009年09月24日 11時35分28秒 | Web log
ベンジャミンはジョナサンと違って、家にいるのが大好きだ。
わたしもそうだったので、一緒にいると落ち着く。

どんよりな2人。

ジョナサンが公園で、キャーキャー遊んでいても、
彼は家で何かに夢中になっている。

で、がんこである。そこも私に似ている。

わたしが、ベンジャミンを笑わせようと思って
なにかしかけると、どうもつぼにはまるらしく、
ゲラゲラ笑ってくれる。

感覚が似ている。

ところで、ある日わたしがパソコンに夢中になって
いるときに、ベンジャミンが遠くで、

「エクスキューズ・ミー、マミー」

と何度も言っているのだけれど、わたしが反応せずに
無視していたら、

「エクスキューズ・ミー、アヤコ!」
「エクスキューズ・ミー、アヤコォォォォ!!!」

と、手段を変えてでてくる。
で、やっとわたしが顔を上げると、ニヤニヤ笑っているのである。

朝、出かけるときに、マイクよりも、私たちの方が早く家を
出た日があった。

で、わたしがグッバイ・ダディーは?と挨拶を促したところ、
ジョナサンは素直に「グッバイ・ダディー」と言って
そそくさと車に乗った。
で、ベンジャミンもそれに習って、「グッバイ・ダディー」と
言ったのだが、引き換えしてきて一言。

「グッバイ、マイケル!グッバイ・マイケル!」

そんなに、ファーストネームが好きなのか?
違いを楽しむ男なのか?

面白い奴だ。

世の光、心の闇

2009年09月23日 18時40分16秒 | Web log
マザーテレサ。

Mother Theresa: Come Be My Light という書簡集が
2007年に出版された。
是非、読んでみたいと思いつつ、いまだ読めないでいる。
が、いつだったかインターネットで、そのあらすじを知った。

実に66年の間に書かれた40通以上の書簡の中にはマザー・テレサ
自身が書き送る際に必ず読んだ後に破棄するよう求めたものも
含まれているらしい。

手紙の受取人は彼女が非常に信頼し、慕っていた Michael
Van Der Peet 聴罪司祭。

告解専門の神父であり、彼女の告解を受けていた。

「私の笑顔は自分の心の奥のとてつもなく大きい苦しみを
隠すのに役立ってくれた。」

「神は私を必要としてはおらず神は万能の神などではなく
そもそも神など存在しないのだ。」

「私はといえば、虚無感と沈黙に苛まれている。見ようとしても
何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない。」

 「私の信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、
虚しさと闇しか見あたらない。神よ、この得体の知れない痛みが
どれだけつらいことでしょうか。」

これらの言葉は、すべてマザーの言葉である。

これらの思いを心に秘め、告解司祭に心の闇を吐露しつつも、
その人以外には誰にも告げず、最後の最後まで貧しきもののために
働き続けた彼女。

ある意味、心の有り様を包み隠さず告解司祭に告げることが
できたという意味で、どれだけ救われたかと思う。
語ることで、少しだけかもしれないが、人間的なレベルでの
孤独を和らげることができたかと思う。

しかし、神を見失った絶対的な孤独は、たとえ彼女が親しい
司祭に語ったからとて、どうにもならなかったに違いない。

しかし、世界中の人が彼女の言葉、行い、一挙手一同を注目する中、
何ができただろう。ひたすら、最初の誓願を固く守り、それに生きる
しかなかったのである。

インドを見た人なら分かる。

命の尊厳もなく、道端でまるで虫けらのように、野良犬のように
息絶える人々。

正義も、理想論も、個人の尊厳も、インドの混濁の中に飲みこまれて
いく。何も変わらない。

そんな中で生き続けた、社会でもっとも弱い人々のために愛を
与え続けた彼女が「神よ、どうしてでしょうか?」と問わずに
いられただろうか。

わたしは、ますますマザーテレサを尊敬せずにはいられない。

安易に『永遠』を口にするなかれ

2009年09月20日 21時13分45秒 | Web log
ずいぶん昔の話ですが、ヴィム・ベンダースの
ベルリン天使の詩という映画を観た。

主人公、天使ダミエル。
永遠に生き続ける天使。しかし、冒頭から出てくる
彼の表情は憂鬱である。

そして彼は永遠の命を放棄して、人間になることを決意する。

彼は『死』に、そして有限の命を持つ人間に生まれ変わる。

あらすじはここまでにしましょう。映画を観たい人が
いるかもしれないので。

で、わたしは、また色々考えた。

この世はあらゆる意味で有限で、相対的である。
光があるから闇がある。闇があるから光がある。
悲しいと感じるから、喜びも感じられる。
幸せと感じるから不幸ととも感じられる。

しかし・・・・

幸せであり続けたいと思っても、もし
幸せでありつづけたら、それはもはや『幸せ』では
ない。

普通になるのである。ゼロになるのである。

悲しみもない、ということは喜びもなくなるのである。



それは・・・・・困る。



でも、相対の世界では、わたしたちが憧れる幸せとは、
悲しみと抱き合わせでやってくるものだということだ。
切り離せないのだ。

幸せが欲しければ、悲しみも受け止めることが余儀なく
される。

なんというパラドックス。

で、永遠ということは、終わりがないということで
これは一体どういうことなんだろうと思う。

初めがあって、終わりがあるという有限の世界では
喜びもつかの間、興奮は冷め、退屈な日常に戻る。
悲しみもまた、いつか癒され、穏やかな日常に戻る。
プラスがゼロに、ゼロがマイナスに、そしてゼロにもどり
そしてプラスにと繰り返す。

しかし、永遠では終わりがないのだから・・・
悲しみはずっと悲しみのまま、喜びはずっと喜びのまま
となるのだ、け・れ・ど・

それがずっと続くということは、負の感情も正の感情も
なくなり、ゼロになるということ、要するに喜びも
悲しみもなくなることを意味するのではと思うのだ。

それは何も感じないのと一緒だ。

それって・・・・困る。

ベルリン天使の詩の中で、天使ダミエルが永遠の命に
別れを告げる理由が、分かるような気がしませんか?

有限の世界で生きているわたしたちが、永遠を想像する
ことは不可能なんだけれど、でも、永遠を安易に口に
するのも、どういうもんかなと思うのでした。





神様はいじわるだ

2009年09月19日 08時27分56秒 | Web log
ジョナサンが4歳のとき、おじいちゃん(マイクのお父さん)
が亡くなった。

オーストラリアに遊びに来た後、末期がんに冒されていることが
わかり、1年半の闘病を経て亡くなった。

亡くなる前に、6ヶ月になるベンジャミンを連れてみんなで
イギリスに行った。意外と元気そうに見えた。
それから半年後、いよいよ危篤だと連絡が入り、マイクが
ジョナサンを連れてイギリスへ向かった。

どの程度かわからないが、ジョナサンはマイクの傍らで
その経過を見ていた。『死』を経験した。

それからというもの、ふとスイッチが入ると、突然、泣きだす。

2、3週間前は「シュレック」のDVDを見ているときに突然泣き出した。
シュレックですよ、シュレック。娯楽映画ですよ、ごらく!!!

おとといは、友達のうちで日が暮れるまでそれはそれは楽しく遊んだ後、
帰宅する途中の車の中で。

で、

「死にたくない」

「誕生日なんかこなくていい、大きくなりたくない。大きくなって、
年取ったらみんな死ぬんだ。ママもダディも僕も死ぬんだ。」

「神様はいじわるだ。どうして人はずっとずっと生きられないの?
おじいちゃんも、おばあちゃんも、もう1人の会ったこともない
おじいちゃんもみんな死んじゃった。会いたいよ。さびしいよ。」

などと、私に訴えてくる。

まるで、父を亡くしたときの自分を見ているようで辛くなる。

何から何までマイクに似ているジョナサンだけれど、こういうところは
わたしの小さいころと同じだ。残念ながら、感受性の強い子だ。

感受性が強いって、損だと思う。負う必要のない余計な悲しみとか
痛みまで背負ってしまうから。

ま、変えようがないので、仕方がないけれど。

で、ジョナサンが泣き出すと、ジョナサンを抱きしめながら
一緒に泣いてしまう。一気に5歳の時の私に戻ってしまう。

で、親として何を言うか。

何も言えないです。

黙って一緒に泣いて、その悲しみを受け取るしかない。

色んな宗教が死んだあとどうなるかについての答えをだしています。
けれども、それと、死別の悲しみは別問題だということが、置き去りに
されているような気がする。

単純に「会いたいのに、会えない」「話したいのに、話せない」
無念さをどうして否定できよう。

無教会主義を提唱した、キリスト教思想家である内村鑑三が
愛娘ルツ子を病で亡くした際に、お葬式の場で「バンザイ」と
叫んだという逸話を聞いたことがあります。

偉大な思想家について、こんなこといっちゃっていいかと
思いますが・・・・





それって強がりなんじゃ・・・・・ね?






大好きだったら、もう一度会いたい、会って話がしたい
と思うのが普通じゃないですか?
悲しみに打ちひしがれてもいいじゃないですか?
落ち込んだっていいじゃないですか?


ねぇ?


悲しみや痛みが深ければ、深いほどその人を愛していた、
必要としていたという証かと思うのですけれど。

それに神様がいたら、悲しんでいる人をとやかく言わないと
思いますけどね。

でも、逆にジョナサンのように「神様はいじわるだ」と
言う人がいてても、神様は「そんなこと言われても・・ねぇ。
わたしを恨んでもいいですけれど、こればっかりは、
どうしようもないのですよ。」としか、いいようがないと
思います。

理由はどうあれ、生きている限り、死んでしまうのは
必然だから。

じゃ、なんで最初っから人間を死する存在に定めたのかって?

「死」がないところに、神という『概念』は存在し得ないからだ
と私は思うのですが。

反論をお持ちのみなさん、どうぞご自由につっこみを入れて
ください。

よろしく。




DNAについて

2009年09月18日 16時45分43秒 | Web log
いつもつっこみどころ満載のブログをのぞき下さって
ありがとうございます。

身体と記憶の記事をだんなに話したら、反論されました。

記憶が臓器に宿るのではなく、DNAにプログラムされた
先天的なものが臓器移植によって、相手の身体に入り、
何らかの影響を及ぼすのではないか?と言われました。

DNAは血液にのって色んなところに運ばれるので、
それがある期間を経て脳に運ばれて、相手方に変化を
及ぼす。移植してすぐに行われるものではない。

加えて、後天的に学習、記憶されたものが
相手に乗り移るとは考えにくいと。

言っておきますが、マイクが言っていることが、
正しいかどうかもわかりませんよ。

DNAは体のどこにでもあり、DNAを抽出して
クローンを作るとか、現代の科学ではこういうことも
可能となっているわけですから、既に実証済なんですが、
科学に疎いわたしがあまりよくわかっていないだけなんでしょう。

勉強不足で申し訳ございません。

このことをマイクと議論しているときに、嗜好とか性格を司るのは
脳の働きだと思いこんでいたので大きな混乱が頭を直撃しました。

DNA(遺伝子)がある程度を決めているのは知っていたけれど
それは、形質に関わるもんだいで、DNAがある種のパターンを
もつ脳みそをつくり、そして、嗜好性、性格(物事をどう感じ、
どう考えるか、どう反応するかなど)を決めているのだと思っていたので、
DNAにプログラムされているものが、脳に影響を及ぼし・・
といわれるともう・・頭が追いついていきません。

でも、例えば食べ物の好き・嫌いというのは、あるものを食べて、
脳が不快感を感じ、そして嫌いという結論を出すのですから、
その決定の中に脳が関与しているわけですよね?

同じ刺激を与えられて、それを快と思うか、不快と思うかは
脳なわけですから、それと体内にあるDNA(遺伝子)が
どう関係しているの????

って、釈然としないです。

要するに、生きている間、DNAがあるパターン通りに
感じるように、刺激し続けているということなんでしょうか?

で、違うDNAが身体に入り込んだときに、そのDNAが
こんどは違う信号で脳に刺激を与え、変化を及ぼすという
ことなんでしょうか?

ということは、DNAの継続的な脳への働きかけによって、
自分というものが存在しているだけにすぎないのだと
すれば、ある意味『自分』という存在は、意外に不確か
なものなんじゃないの?と思ったりするのです。

臓器を変えただけで変わっちゃうんですから。

って、ところで私、本当にDNAってなんだか
わかってんでしょうか?

分かっている気になっているだけのような気がします。

だから混乱するんでしょうね。

すみません、無益な戯言をここに書いちゃって。

では、よき週末をお過ごし下さい。


署名

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