私は滅多に怒らないのだが、どうして?と訊かれて頭を捻った挙句出てきた答えは、「そこまで期待していないからじゃないかな。」というものだった。「うわあ、意外と冷血なのね。」と言われてしまったのだが、誰も100%の力を常に出せるわけではないよね、と半ば当たり前のことを念頭に置いた上で交流しているだけである。よく「○○は甘え」みたいな言葉があるが、これは甘えを問答無用で悪と決め付けているかのようにみえる。しかし私は、少しくらい甘えた感じでいいよ、と思っている。少しくらいの甘えを許す社会のほうが、強迫的に常に100%で取り組む社会より持続力があるだろう。うつは理性の規律に身体が悲鳴を挙げた状態と言われているが、現在このような状態に陥る人が続出して社会全体が消耗しているように見えるのは、完璧主義、遊びは許さない、甘えは許さない、といった価値観が強いからであろう。
こうして「甘えてはいけない」と自己を規律するのは理性の働きである。しかし、本当に甘えてはいけないのか、甘えがあってもいいときではないのかと丹念に吟味し、他者にも自己にもなるべく不必要な心理的負担をかけないようにするのが、理性の使い方・頭の使い方として本来あるべき姿のように思う。そして、妥協なく取り組むべきことを見定めて、それに集中する。そういうメリハリのあるマネジメントができるようになったら理想的だ。
小さなことだが、私が待ち合わせの設定を委ねられたとき、よく「○時○分から○分までの間に集合」というように、点でなく面で時間を指定することがある。これはアテネ五輪のテレビ中継で「こちら(ギリシャ)ではバスの時刻表が『○分から○分まで』って幅をもって書かれているんですよー。」という現地の話があり、ああこういうアイデアはいいな、と思って採用することにしたものだ。指定した時間ピッタリ来る必要性が本当にある場合っていうのは大して多くないし、あまり本題以外のことに余計な神経を使わせるのも非効率だ。ルート検索等に勤しんだり息を切らして来て最初の十数分何もできないよりは、中身の準備をしっかりして体調も万全で来てくれた方がいい。また、点で時間を指定すると早いか遅いかどちらかになるため、最初の挨拶が「ごめん」で始まることが多くなるが、一定の範囲内なら皆ピッタリということになれば、明るく入ることができる。
こんなことを書いたが、別に私が甘えを許さない周囲と不適応な行動を起こしているわけではない。法科大学院の授業は無遅刻無欠席、ノートも貸すことのほうが多く、しっかりしているという評価は得ていると思う。自分が主導的に何かを決めることができる場合に、不必要に他の方に厳しくしすぎないように心がけているというだけである。しかしその結果、作業や役割を多く抱え込んでキツくなりがちある。自分が甘えを許容するのに加えて、時に甘えを認めてもらうことも少しは考えていかないといけないのかもしれない。
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