器用であることと不器用であることのどちらがいいか、と訊かれれば、器用なほうがいいに決まっていると言う人が多いであろう。何事もソツなくこなせることができれば、小さな苦労が少なくなるのは確かだ。しかし、器用であることにはデメリットがある。何でもそこそこできてしまうため、自分の適性を見つめる機会が得られにくい。今のままで問題ない、そんな感じで進んで行き、「自分はこれで生きる」といった覚悟がないまま物事に取り組むことになってしまいがちだ。そして、今やっていることへの思い入れが生まれにくく、他の道に行けばもっといい結果が出せるのではないか、という疑念も生まれてくる。
「器用貧乏」という言葉があり、器用であるが故に大きな成果を生み出せない、といった意味で使われるが、器用さが直接そのような帰結をもたらすのではなく、上記のようにメンタリティにマイナスの影響を与える原因になりがちだということであろう。適応力が高い、概要を把握するのが早い、あるいは我慢強いといった器用さを支える能力は大きな成果を出すのにも役立つもので、正面から物事に取り組み継続して力を注入する確固とした覚悟が得られれば、きっと目覚しい成果を挙げることであろう。不器用で自分に合わないものに耐えられない人は、壁に当たるたびに如何にして生きていくかという問題に直面し、その回答を続ける中で自然と自分に真に合ったものを見つけていくことになる。「自分はこれ」という感覚をもつことは、成果を出す力になる上に、生き生きとした実感を伴う生活をするためにも重要である。
以前、高校時代の友人と話をしていて、東大生の進路選択に「あれ?」と思うときがある、と言われたことがあった。従前に語っていた将来の夢とは全然関係ないようなところを選んでいる人が多い、選択肢が多くて夢を追える立場にあるはずなのに不思議、といったものだ。私は、上記のような器用さの問題が影響しているように思う。東大の入試は科目数が多く、どの科目も平均以上にこなせる人にとって非常に有利な仕組みになっているため、器用な人が多くいると推測できる。そして、受験に際しては順位付けの世界にどっぷり漬かっていて、特に法学部に来てしまうとまた成績競争が続き、他人との比較の目に曝され続けることになる。こうなると、自分が何を成し遂げたいのか正面から向き合うことがなく、周囲より優れている、成功しているという感覚が持てることを最優先で考えるようになってしまう。
私は学生仲間の内では学究的なタイプの人だと言われてきたが(mixiの紹介文もそういうのが多いから思い込みじゃないだろう)、研究者の進路はとらなかった。それは、その分野に心から興味を抱いているのか、確固とした探究心があるのか確信が持てず、多数派の実利志向の雰囲気から逃避しているだけではないか、という疑念があったからである(おそらくこの自己認識は正しい)。こうした曖昧な態度を直そうと、「やるべきことに正面から取り組もう」と自己の抱負として掲げることが何度かあったが、達成できたことはなかった。しかし最近、法律の勉強から一時的に離れる機会があり、そして今また戻ってきてみると、今まで自分の蓋をしてきた価値観みたいなもの―特に「自分はある分野で成功しなければならない」といったもの―が取り払われて、純粋に取り組んでいるという感覚が生まれてきた。夢や情熱が不足しているのなら今ある状態にプラスしていこうとしてきたが、不足しているのではなく上手に伸ばせていなかっただけで、邪魔しているものを取り払うマイナスの作業が必要だったのだと気がついた。
この調子でいけば、生活に実感をもって、何はともあれ楽しく過ごしていくことができるだろう。これまでは「大学受験を頑張っても人生楽しいとは限らないよ」なんて言ってたけど、大丈夫、きっと大丈夫。この記事の文章力は大丈夫じゃないけど。体裁を整える作業より気持ちが強いってことで御免!
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