あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

いいことと悪いことはバランスなようで

2018-09-27 | from:sachiaki
朝から寒い1日でしたが、みなさまは風邪など召されませんでしか?
私といえば、とくに問題なく過ごしたものの
喉がやや痛くなっていたので、
先日の横浜散歩で手に入れた『杉養蜂園』さんの
果汁入り蜂蜜を舐めてやり過ごしていたsachiakiです。

こんな寒くて体にダメージある中、
朝っぱらから見た瞬間に閉じるメッセージが大量に届いていたので
わひゃーってなりながら、二度寝を決め込んだりしていました(ぉぃ

起きてから通常モードで作業を開始したわけですが、
メンタル的にややサゲモードだったものの
夜学バーのスタッフさんから
孔子についての面白トークをLINEで頂戴することもでき、
よし、これで頑張れる☆って気合いを入れることができました。

曰く、

四十にして惑わずは

「惑」ではなく

「或」であって、

これは「区切らず」という意味をもっているので

四十にして区切らず。


つまり、四十になっても新しい領域にチャレンジしていくといいよ。
っていう意味なのだそうな。

孔子といえば生涯放浪していたような先生なので
(政治家になりたかったけれど、いい職にありつけなかっただけなんだけど)
四十にして惑わず よりも
四十にして或わず の方がシックリくる気がしますw

で、この話を読んだあと、ふと思い出して
角川ソフィア文庫から出ている『論語』を読み返していたら

子曰く、学びて時に(つねに)之を習う。
亦説(悦)ばしからずや。
朋 遠方より来たる有り。
亦楽しからずや。
人 知らずして慍(いか)らず。
亦 君子ならずやと。

という言葉に再び出会いまして
あぁ、いい言葉だなぁと改めて感じていたところです。

訳はこんな感じです。

習ったことを常に復習し、身につけていくことは
なんと喜ばしいことでしょうか。

友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは
なんと嬉しいことでしょうか。

他人が自分を認めてくれないからといって
不平不満を言うことはありません。
なんと徳のあることでしょうか。

ずっと惑ってばかりで、これで四十か?本当にこれでいいのか?
なんて思ったり、そろそろ落ち着いた方がいいのか?
とか思ったりしていたけれど、
新しいことをしてもいい。

そして、常に学び続け自分の肥やしにしていき、
友達が来てくれることに喜び
(これは種田山頭火も遠方より朋来る、って書いていたくらいなので
 朋のありがたさは年々染み入ってくるのかもしれない)
認められないからといって不平不満を言わずに
常に自分を高めていければ良いなぁと思ったりしました。

良い知らせもあれば、悪い知らせもある。

それでも腐らず、自分の真ん中にドンと腰を据えて
揺らがずに、しかしながら柔らかく対応していけたら良いなと思います。

ちなみに、私が尊敬する人の中に
ガンジーとマザーテレサがいますが、
そのガンジーが
「見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい」
と言っていたので、自分の見たい世界へ
自分自身が繋がれるようにしようと思います。

そんな感じ!
それじゃそろそろ動揺しちゃってバーンってスルーしっぱなしだった
メッセージたちと向き合ってきますよ。
また明日ね〜。モイモイ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする