あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

天邪鬼な私が(比較的)素直になったわけ

2020-09-02 | from:sachiaki
今もまだ天邪鬼ばところはあるし、
人が一致した意見になりそうになると
「それ本当?」って言い出したくなるような
性格の悪さはあるけれど、
それでも本当に自分がしたいことがある時などで
誰かに言われたからやりたくない、とか
楽しそうなところに交わっていたくない、とか
そういったものからはだいぶ遠のいたと思っているsachiakiです。

一番こじらせていた時はめちゃくちゃ反抗期で
「これから家族で外食するよ〜」って言われた時に
小六にもなって家族といるなんて恥ずかしいから行かない!
なんて言い出して、本当は家族といるのは多少の恥ずかしさはあるものの
外食は楽しみだ!ってなっていたのに
結局強く誘われるほどに頑なになって行かずに過ごし、
一人でカップ麺食べて家族を待つってことをしてました。
今考えると相当かっこ悪いんだけど、
当時の自分は自分をコントロールすることが難しくて
結局心の嵐に負けてしまっていました。

というわけで、当時から自分の中の自分ってやつと向き合う機会が多く
素直な気持ちを表明するのが難しい時期をいくばくか過ごしたものですが
素直になった方が色んなことが楽になる!
っていう風になってからだいぶ自分の声に負けることは減った気がします。

で、肝心の素直になれた経緯ってなんかあるの?
っていうと、多分自分のやることを否定されないというか、
”やりたかったけれど、やれない”というようなことを
「やればいいじゃん」って言ってくれる人が周りに増えたのがきっかけなんだろうな
なんてことを思ったりしています。

子供の頃はなにかといえば
「お姉ちゃんだから」「女なんだから」「もう高校生にもなったんだから」
みたいな感じで我慢するのが当たり前で
自分の中で「否定される理不尽」に対して
うまく咀嚼できなかった部分が天邪鬼という
心の嵐になって生まれて暴れまわっていたのだと思います。

今は「それはダメだと思う」って言われて「なんで?」って返せば
ちゃんと道理や理屈で教えてもらえて納得できるぶん
心に筋が通るから「否定された!」ってなりにくくて
素直にいろいろなことが聞けたり出来たりしている感じです。

理由がなくても(わからなくても)ダメなことっていうのは
きっと理由があったはずのことを忘れてしまっていたりしてて
思考や主体性を閉じる作業に押し込められるものなのですよね。
仕事とかで主体性を問われるまでもないような
歯車になった方が良い時があったりして
自分の考えが邪魔になることもあるけれど、
それは自分を任せられるほどの信頼があったりとか
そういう土台があってこそだったりするので
窮屈なところにいると、とたんに天邪鬼が発動してしまうのだろうな
とかなんとか、そんなことを思ったりしていました。

天邪鬼とはいかなくても、自分が素直になった方が
うまくいくことがまだ分からない時というのは
素直になった自分を否定されるのが怖いとか
そういった不信があるからで、心が子供のままなのだと思います。
生き馬の目を抜かなくてはならないような
大変な環境にいるのでなければ人や環境を信じて、
したいこと、したくないことを声に出してみると良いと思います。
なかなか難しいですけどね。

大人になった自分にとって
否定をしてくる人の声は聞かなくても良いし、
注意をされたなら、それを検討する知恵もあるわけだから
自分で自分のことを決めると良いと思いますよ。

自分のすることに対して責任がついて回ること。
それがちゃんと分かっていればなんとかなるから。

自分に振り回されているというのは
実は他人に振り回されているということである
そんなのしゃくにさわるじゃない?
自分の人生、自分のために取り戻しましょう。

そんなことを思った夜なのでした。
そんじゃまた明日。モイモイ
コメント
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