なんか小難しいことをタイトルにしちゃったけれど
旦那氏であるところのパンダ氏を見ていると
理性的であり続けると心を病むのかもしれない
なんてことを思ってしまうsachiakiです。
この世界は理性的であり続けようとすると
あまりに整合性が取れないことが多く
そこに不適合となってしまい
適当にブレを持っていないと社会不適合っていうやつに陥りやすく
本人は至って悪くはないのに「合わせられないお前が悪い」と
なりがちなところが大変だな〜
なんてことを思ったりするのです。
私はそこまで理性的ではないので
そこそこに本能とともに過ごし
そこそこに欲望の赴くままに動いているので
そこがクッションとなって不適合から逸脱できているような気がします。
というよりも、不適合とされる前に
あ、合わないなって思ったら離脱できるというか
無理ができない我の強さを持ってしまっていたというか。
イヤなものはイヤ。
好きなものは好き。
そういった感情べったりなところがあって
その感情に蓋をするのが難しい…というよりできないので
理性的と呼ばれる人たちの我慢強さには尊敬の念しかありません。
でもね。
最近読んでいる本とか通じて考えてみると
はたして本当に自分の意思というものが
理性というものを持っているのだろうか?
なんてことも思ったりしてしまうんです。
いやいや、なんちゅーことを言うんだって自分でも思うんだけど……。
少なくとも我慢をしたり、想像力を働かせて人を傷つけないことや
降りかかるであろう危機を予測して備えるなど
それらは理性と呼ばれるものの一部で
それらは必要だし、社会という構成を担う集団内にいるのであれば
もっとも大きく育てないとならない行動原理だと思うんだけど
それってどのぐらい自分へ向けて動機づけられるように
鍛えられるものなのだろうか。
理性と呼ばれているものでさえ、
条件や行動制限で実はそう選ばされているだけなんじゃないだろうか。
そんなことを感じてしまったりするわけです。
小さな三つ子の魂時代に、ある行為をしたせいで怒られたり
なにかを制限させられる条件付けをされていたのなら
それは理性と呼んで良いのだろうか。
条件付けで我慢をしたり、なにかを抑制したりしているのは
はたして理性なのだろうか。
ー結果的に理性的な振る舞いになっているんだったら
それはそれでいいじゃないかって思うんだけど。
徒然草でいうところの
*驥は駿馬のこと
*舜は中国の理想的な伝説の帝王で指導者の理想像のこと
っていうので、その理性的な振る舞いの理性の真正を問う暇があるなら
少しでも理性的な振る舞いを学んで理性的に振る舞うことができるなら
それは理性的ってことでいいんじゃないかって感じ。
そうそう、私は今でこそ論語がわりと好きだけど
もともとは徒然草が好きなんですよ。
好きっていうほど全段暗記したりはしてないけどね(ノ∀`)アチャー
その昔、いまでいうところのEテレこと教育テレビ内で
徒然草を吉田兼好の声役で立川志の輔さんがされていて
妙に印象づいていて、今も好きなんですよね。
そういやその当時同じ枠で放送されていた
更級日記の方は全然印象に残ってない。なぜだろうw
>NHK まんがで読む古典
まんがで読む古典・徒然草 19段前半
しかし吉田兼好って人の俗っぽさはいいよなぁ。
吉田神社なんていう高貴な神社の神職を出す超エリートの出自なのに
なんだかんだで随筆家になっちゃうんだもんね。
この人のひねくれた目線は今も大好き。
現代語訳のbotも秀逸で好きなのでフォローしてるぐらい。
→@tsuredure_bot1
と、話がずれてしまったけれど
自分の意思が理性的でないと思うなら
理性的に振る舞う人の真似をした方がよかろうし、
自分が理性的だと思うなら、
なるべくそうであり続けられるように
律していくと良いですよねって感じ。
とはいえその理性的であろうとし続けた結果
心が病んでしまったりするのはシンドイですけどね。。
それなりに、ほどほどに。
どうでも良いけれど、まんがで読む古典の中に
雨月物語の蛇性の淫があったんだけど
子供時代に出会って性癖がっつりやられた人もいるんじゃないだろうかw
まぁ文学少女なんてものはだいたい性癖歪んでそうですけどね(偏見w
と、これ以上うっかり失言してしまう前に
今日はこれにて。モイモイ。
旦那氏であるところのパンダ氏を見ていると
理性的であり続けると心を病むのかもしれない
なんてことを思ってしまうsachiakiです。
この世界は理性的であり続けようとすると
あまりに整合性が取れないことが多く
そこに不適合となってしまい
適当にブレを持っていないと社会不適合っていうやつに陥りやすく
本人は至って悪くはないのに「合わせられないお前が悪い」と
なりがちなところが大変だな〜
なんてことを思ったりするのです。
私はそこまで理性的ではないので
そこそこに本能とともに過ごし
そこそこに欲望の赴くままに動いているので
そこがクッションとなって不適合から逸脱できているような気がします。
というよりも、不適合とされる前に
あ、合わないなって思ったら離脱できるというか
無理ができない我の強さを持ってしまっていたというか。
イヤなものはイヤ。
好きなものは好き。
そういった感情べったりなところがあって
その感情に蓋をするのが難しい…というよりできないので
理性的と呼ばれる人たちの我慢強さには尊敬の念しかありません。
でもね。
最近読んでいる本とか通じて考えてみると
はたして本当に自分の意思というものが
理性というものを持っているのだろうか?
なんてことも思ったりしてしまうんです。
いやいや、なんちゅーことを言うんだって自分でも思うんだけど……。
少なくとも我慢をしたり、想像力を働かせて人を傷つけないことや
降りかかるであろう危機を予測して備えるなど
それらは理性と呼ばれるものの一部で
それらは必要だし、社会という構成を担う集団内にいるのであれば
もっとも大きく育てないとならない行動原理だと思うんだけど
それってどのぐらい自分へ向けて動機づけられるように
鍛えられるものなのだろうか。
理性と呼ばれているものでさえ、
条件や行動制限で実はそう選ばされているだけなんじゃないだろうか。
そんなことを感じてしまったりするわけです。
小さな三つ子の魂時代に、ある行為をしたせいで怒られたり
なにかを制限させられる条件付けをされていたのなら
それは理性と呼んで良いのだろうか。
条件付けで我慢をしたり、なにかを抑制したりしているのは
はたして理性なのだろうか。
ー結果的に理性的な振る舞いになっているんだったら
それはそれでいいじゃないかって思うんだけど。
徒然草でいうところの
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥*を学ぶは驥の類ひ、*舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
*驥は駿馬のこと
*舜は中国の理想的な伝説の帝王で指導者の理想像のこと
っていうので、その理性的な振る舞いの理性の真正を問う暇があるなら
少しでも理性的な振る舞いを学んで理性的に振る舞うことができるなら
それは理性的ってことでいいんじゃないかって感じ。
そうそう、私は今でこそ論語がわりと好きだけど
もともとは徒然草が好きなんですよ。
好きっていうほど全段暗記したりはしてないけどね(ノ∀`)アチャー
その昔、いまでいうところのEテレこと教育テレビ内で
徒然草を吉田兼好の声役で立川志の輔さんがされていて
妙に印象づいていて、今も好きなんですよね。
そういやその当時同じ枠で放送されていた
更級日記の方は全然印象に残ってない。なぜだろうw
>NHK まんがで読む古典
まんがで読む古典・徒然草 19段前半
しかし吉田兼好って人の俗っぽさはいいよなぁ。
吉田神社なんていう高貴な神社の神職を出す超エリートの出自なのに
なんだかんだで随筆家になっちゃうんだもんね。
この人のひねくれた目線は今も大好き。
現代語訳のbotも秀逸で好きなのでフォローしてるぐらい。
→@tsuredure_bot1
と、話がずれてしまったけれど
自分の意思が理性的でないと思うなら
理性的に振る舞う人の真似をした方がよかろうし、
自分が理性的だと思うなら、
なるべくそうであり続けられるように
律していくと良いですよねって感じ。
とはいえその理性的であろうとし続けた結果
心が病んでしまったりするのはシンドイですけどね。。
それなりに、ほどほどに。
どうでも良いけれど、まんがで読む古典の中に
雨月物語の蛇性の淫があったんだけど
子供時代に出会って性癖がっつりやられた人もいるんじゃないだろうかw
まぁ文学少女なんてものはだいたい性癖歪んでそうですけどね(偏見w
と、これ以上うっかり失言してしまう前に
今日はこれにて。モイモイ。