言葉にしていく努力はした方がいいよね
って考えているsachiakiです。
もちろん最近は言葉に頼りすぎだっていう風潮もあるし、
もっと身体に寄り添えって話も聞きますので
異論は色々とあることは承知の上なんですけれど、
私がなぜ言語化した方が良いかってことにこだわるかといえば
少なくとも人類が思考するツールとして持っているのは「言葉」であり、
これが違いの思考を交換できるものだからです。
子供時代は誰かがワァーーーンって泣けば
それに呼応する形で共感し一緒に泣いたりして
その「悲しい」などの感情を共有できましたけれど、
その「悲しい」気持ちを「悲しい」という言葉で置き換えるようになり、
相手に伝えるようになるのが発達だと思うんですね。
つまり語彙力が上がれば上がるほど
自分の気持ちが整頓できるようになるし、
相手にもそれを伝える術が高度化していくってわけですよ。
子供から大人になることっていうのが
相手とどれぐらい「なにか」を「交換」できることだと思っているので
できれば語彙力や話し方、伝え方を磨いていくのが良いと思うのですけれど、
身体を持っている人間ならではの伝え方もあるので
そこは対面の時に発揮するものだと思うけれど、
そうはいってもやはり身体の言語というシンプルさには
同じ環境であることであったり、色々と前提条件も必要だったりするので
(仮に)みたいな置き方をして語り合えたり
お互いの状態を交換できる言葉は大事にした方が良いと思います。
と、もっと書きたいことがあるんですけれど、
書き始めた時と時間が経ってしまって曖昧になってしまったので
また改めて。モイモイ。
って考えているsachiakiです。
もちろん最近は言葉に頼りすぎだっていう風潮もあるし、
もっと身体に寄り添えって話も聞きますので
異論は色々とあることは承知の上なんですけれど、
私がなぜ言語化した方が良いかってことにこだわるかといえば
少なくとも人類が思考するツールとして持っているのは「言葉」であり、
これが違いの思考を交換できるものだからです。
子供時代は誰かがワァーーーンって泣けば
それに呼応する形で共感し一緒に泣いたりして
その「悲しい」などの感情を共有できましたけれど、
その「悲しい」気持ちを「悲しい」という言葉で置き換えるようになり、
相手に伝えるようになるのが発達だと思うんですね。
つまり語彙力が上がれば上がるほど
自分の気持ちが整頓できるようになるし、
相手にもそれを伝える術が高度化していくってわけですよ。
子供から大人になることっていうのが
相手とどれぐらい「なにか」を「交換」できることだと思っているので
できれば語彙力や話し方、伝え方を磨いていくのが良いと思うのですけれど、
身体を持っている人間ならではの伝え方もあるので
そこは対面の時に発揮するものだと思うけれど、
そうはいってもやはり身体の言語というシンプルさには
同じ環境であることであったり、色々と前提条件も必要だったりするので
(仮に)みたいな置き方をして語り合えたり
お互いの状態を交換できる言葉は大事にした方が良いと思います。
と、もっと書きたいことがあるんですけれど、
書き始めた時と時間が経ってしまって曖昧になってしまったので
また改めて。モイモイ。