あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

クリエイターとはなんぞや?

2023-07-13 | from:sachiaki
ギレルモ・デル・トロ監督が
AIで製作するイラストやアニメーションに関して
質問されたものに対して

 「芸術は魂の表現だと思います。
 最高のものは、自分のすべてを包み込むもの。
 ですから、私は人間が作った芸術を消費し、愛しています。
 私は機械やテクノロジーによって作られたイラストレーションには
 興味がありません。人間の感情や表情をテクノロジーで
 再現しようというような会話が映画について交わされたとしたら、
 私は深く傷つき、宮崎駿監督が言うように、
 『生命に対する侮辱』だと思います」と宮崎氏の過去の発言を
 引用して回答しました。

とあったのを読みまして
そうなぁ、と思うのと同時に
でも脳内にある豊かな世界をうまく吐き出すことができず
プロデューサーや原作者になって
他の人に絵を作ってもらう人もいるので
そういうのとなにが違うんだろう?
って思わなくもないsachiakiです。

もちろん人ができないことができるってのが才能で
それで生活の糧を得たりするし
AIや機械化が進んで
できなかったものができるっていう状況が広がっていったら
才能と呼ばれるものが才能ではなくなっていくので
それで困る人もいるでしょうなぁ
なんてことも思ったりする。
けれど車の運転だって
マニュアルでしか動かせなかった時代から
オートマで動かせるようになり、
さらに今は自動運転も導入しようって形になってるわけで
そういったものの延長線として
AIや機械化ってものを導入していかざるを得ないんじゃない?
なんて思ったりする。

とはいえ、クリエイティブな部門ってのは
「できなかったことができる」と便利ってものとは
またちょっと違う分野にあるようにも思えて
なんでそんなことを思うんだろうなって
自分でも不思議になります。

なんていうか、アートと呼ばれるような分野では
生活のために必要としないものだけど
心の余裕や豊かさのために欲しいものではあるんだけど、
それを提供する人は生活とは離れている人とか
生活の匂いを忘れさせるぐらいのものが作れる
みたいな人であって、
どこか”人と違うこと”というのを大事にしているのかもな〜
なんてことを思ったり。
”人と違うこと”がアイデンティティでもあった
クリエイティブな部門で
”特別な人と同じことができる”っていうのは
致命的といえば致命的なのかもねぇ……なんてことも思うし、
実は人ってのはそんなに違いがなくって
”特別”だと思っていたものが”特別でもなんでもなかった”
ってことはあるのかもしれないですよね。

でもあれよね。
クリエイティブなものだと思われていたものが
工業製品みたいなことになるってことだから
芸術家が作った器が好き(手仕事の製品)
大量に作られた中のこの器が好き(工業製品)
っていうことになっていくのかなーとかなんとか。
同じ工業製品でもユニクロのものが好きってのと
ZARAのものが好きっていうのは分かれるものだし、
誰々のプロンプトで描かれるものが好きって
感じになるだけなのかもしれない。

手仕事が好きな人は手仕事でやっていくしかないんだけど、
今現在の茶器などを手仕事でやってる人が
ものすごく価値をもって迎え入れられるか
まったく価値がなくって工業製品よりも劣る
(市場が狭いとか、機会がないとか)
ってのを受け入れるかってことになるんだろうね〜と。

まぁそれって、今のクリエイティブ業全て
そんなに変わらないってことでもあるような気がするけれど、
頑張って手に入れた自分の作風を守っていかないと
売れた時に模倣に溢れるってことでもあるのかな。
ん?でもそれができないように著作権があるんだから
やっぱりそんなに変わらないかな。

そんなことをインタビュー記事を読みながら考えていました。
それではまた。モイモイ。
コメント
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